平成26年度においては、本研究全体の総括として、哲学的人間学の思想家たちが共通に抱いていた課題、つまり伝統的な主知主義を批判する一方で、20世紀になって新たに登場してきたダーウィン主義的な人間理解とどのように対峙していくのかという課題に対する彼らの取り組みを概括的に整理した。その際に私が鍵概念として注目したのは、哲学的人間学の思想家たちが使用している「シンボル」という概念である。研究の結果明らかになったことは以下のとおりである。 『シンボル形式の哲学』第3巻(1929年)におけるカッシーラーは、シンボル形式として神話、言語、科学をあげているのであるが、これらはすべて、人間の「生命」が再帰的に自己自身と向かい合うための媒体であるとしている。このように考えることによって、人間の生物としての自然性を認めつつも、同時にその自然性を再帰的に自らのうちに統合していくという人間の特殊性をも説明できる。同様に、『人間』(1940年)におけるゲーレンは、人間の知覚から言語までを一貫したシンボル形成的な機能として捉えている。さらに、『知覚の現象学』(1945年)のメルロ=ポンティは、シンボルの問題を身体論の文脈で考察し直し、人間の身体的行動をシンボル産出の場として捉えている。以上のように、「シンボル」という概念を導入することによって、自然的な知覚から悟性的判断までを一貫した人間学的観点から捉え直すことができる。そのことによって、シェーラーが唱えたような「精神」対「生命」の対立図式や、現代の認識論や倫理学においてしばしば取り沙汰される「合理主義」対「進化論的プラグマティズム」といった対立図式を乗り越えることが期待されるのである。 以上の研究成果の一部は、論文「E・カッシーラー『シンボル形式の哲学』第3巻「認識の現象学」における「シンボル」概念─その現代的意義についての予備的考察─」として公表された。
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