研究課題/領域番号 |
23520104
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研究機関 | 青山学院大学 |
研究代表者 |
井田 尚 青山学院大学, 文学部, 教授 (10339517)
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キーワード | 百科全書 / ダランベール / 科学史 / 科学論争 / 説得 / フランス / 啓蒙主義 |
研究概要 |
十八世紀のフランスで編纂された『百科全書』の科学項目において、一見客観的な辞書の定義の装いの下に執筆者が各々の学問的立場や科学的見解の正当化を目指していかに個人的な主張を挿入し、対立学説の反駁や読者の説得を試みたかを言説操作の視点から解明することを目指した。この狙いに沿って、前年度からデータベースソフトFileMakerを利用し、典拠からの借用範囲の塗り分け作業のデータ化を進め、数学者・物理学者ダランベールの物理学項目の叙述の解析を行った。その結果、たとえば万有引力の概念を紹介した代表的な項目「引力」(ATTRACTION)において、ダランベールが『百科全書』編纂の種本となった英国のチェンバース百科辞典の該当項目およびミュッシャンブロークによる物理学啓蒙書の文言を現代の「コピー&ペースト」さながら八割方引き写しながらも、約二割という、通常の辞書の項目にしては異例ともいえる長い個人的介入を行っていることが判明した。ダランベールの個人的な介入は、世紀前半から中期にかけて科学アカデミー内でデカルト主義に取って代わる科学パラダイムとしての地歩を築きつつも、デカルト主義を堅持する守旧派の反論に遭い、未だ全面的な制覇には至らなかったニュートン主義と引力理論を強力に擁護する議論であり、客観的な科学的真理の担保の範疇を超えたきわめて党派的かつ論争的な主張である。ダランベールによる『百科全書』の項目へのこうした個人的介入の言説の出所をさらに辿ると、『力学論』(初版1743年、第二版1758年)や天体の運動を論じた『世界の体系に関する様々な重要な問題の探求』(1754年-56年)などの自著から援用される場合もあれば、それらの自著で重要な論点として再利用されることもあることが分かった。このように『百科全書』の科学項目は、啓蒙陣営の科学者による説得の場でもあったことが明らかになった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
今年度は、ダランベールの執筆による『百科全書』の科学項目の典拠調査のデータベース化を進める過程で、研究目的の(D)「『百科全書』の科学理論に見る「説得」の言説」のテーマに関連する『百科全書』の科学項目の記述を論争的意図に基づく言説操作の観点から詳細に分析する作業を試みた。その結果、ダランベールが万有引力を紹介した代表的な項目「引力」などにおいて、英国のチェンバース百科辞典などからの大量の借用をベースに項目を執筆する一方で、数々の理論著作を公にした数学・物理学の権威として項目内に随時介入し、ニュートン主義など自らの科学的信念・見解を擁護する論陣を張っていることが判明した。 さらに、詳細な典拠調査によって浮き彫りになるこうしたテキスト構成上の事実から、客観的な科学的真理を記述したものと思われがちな『百科全書』の科学項目が、当時の学問の世界を分断していた複数の党派的対立を背景に、対立学派の論駁ないし読者の説得を目的とした党派的な言説操作をある意味で露骨に受けていること、現代の我々が想像する客観的な辞典の記述と相当かけ離れた論争的な意図と党派的な主張を反映したものであったことが分かった。 このように研究計画が物理学を中心とするダランベールの執筆項目の分析に収斂しつつある現状を受けて若干計画を修正し、(C)「百科全書派の生命科学と科学的「信念の 衝突」」はこれまでの基礎資料の収集のみに留め、今後の課題として別の機会に改めて具体的に検討することとした。 なお、(D)のテーマとも密接に関連した(E)「『百科全書』の「受容」と科学知識の「啓蒙」」のテーマで扱う一次資料の収集に関しては、『ジュルナル・デ・サヴァン』や『トレヴー評論』など『百科全書』と読者層が重なる科学雑誌・学術雑誌に加え、百科全書派、反百科全書派の個人著作も視野に入れてデータの準備を進めているところである。
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今後の研究の推進方策 |
26年度の年度前半は、啓蒙期の科学論争の歴史的実相に迫る上で極めて重要な視座をもたらし、今後の独立した研究課題に発展する可能性を秘めた (D)「『百科全書』の科学理論に見る「説得」の言説」のテーマに関するデータの分析をさらに一層進めるとともに、(E)「『百科全書』の「受容」と科学知識の「啓蒙」」のテーマに関する科学雑誌・学術雑誌など追加資料の収集・分析を続け、論文執筆の立論と論証の基礎となる充分かつ説得的なデータの構築を目指したい。なお、「研究目的」の(C)「百科全書派の生命科学と科学的「信念」の衝突」のテーマは、研究対象が数学者・物理学者ダランベールの執筆項目にほぼ絞り込まれつつある現状と研究期間内の実現可能性に鑑みて割愛したい。 (D)のテーマの基礎資料は、ダランベールを中心とする科学者が執筆した『百科全書』の科学項目とその典拠、個人著作などの一次資料である。ダランベールの執筆項目の数学、天文学を除く力学・物理学項目の相当量については典拠調査がほぼ済んでおり、項目内への執筆者の個人的介入に見られる説得の言説に的を絞ってまとまった議論をする準備ができている。(E)のテーマに関しては、『ジュルナル・デ・サヴァン』、『トレヴー評論』など『百科全書』(1751-1772)と同時代の学術雑誌のほぼ二十年間の巻号に基礎資料をほぼ絞り込める。また、インターネットで公開されているフランス国立図書館の電子資料や索引なども活用して短期間に必要な追加データを効率的に抽出・分析する環境も整っており、年度前半で資料収集を終える見通しがついている。 26年度は本研究の最終年度であるため、研究目的の(C)を除く(A)から(E)のテーマに関するデータ分析と議論の内容を各論レベルで整理した上で、次なる研究の方向性を示し得る包括的な研究成果を著述・論文の形で、できれば著書として発表したい。
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