長野県諏訪地方におけるラッパ文化の形成についての文献調査をメインに、重要な背景となっている消防団(消防組)に属するラッパ隊(ラッパ手)、さらに消防団の活動と密接なかかわりを持つとみられる諏訪大社御柱祭のラッパの相関関係を視野に入れてフィールドワークを数回おこなった。 明治期に登場したと思われる消防ラッパの歴史的経緯や現在の実態については、これまで明らかではなかったが、消防組に関する文献(とりわけ明治20年代後半以降の「消防組規則」をめぐる資料等)を精査することにより、公設消防組の設置を契機に、つまり明治20年代後半から大正期にかけて、消防活動の近代化とともに広くラッパが配備されていったことが明らかになった。長野県諏訪地方のラッパ文化に関していうと、これによって、直ちに御柱祭のラッパの起源が消防組にあるとは断定できないが、少なくとも戦前に、多数の民間ラッパ手が存在していたことは指摘でき、その素地になったと考えることは妥当であろう。 継続調査をしてきた長野県消防協会主催のラッパ吹奏大会の取材(7月、諏訪スタジアム)に加え、諏訪大社御柱祭のラッパ隊(茅野市の団体A)を調査した。消防団におけるラッパ経験者を多く含むラッパ隊(団体Aに所属)は、御柱祭においても、消防のスタイル(編成やレパートリー)をほぼ継承し、単に祭礼を賑やかすのではなく、従来の音楽(木遣り唄)と共存しつつ、ともに御柱の曳航自体をアシストする機能を有する。もっとも、そのパフォーマンスは、消防の基本スタイルをキープしつつも、たとえば今回(2016年4月)は十数台の和太鼓との合奏を採用し、柔軟かつ創造的な変容をみせた。 一見すると些末な文化として切り捨てられがちであるが、このような音楽文化の継承・保存とともに変容・生成の動態を捉えることは、いわゆる「伝統文化」とよばれる事象全般の再考にとっても有益な成果が得られた。
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