本年度は、フランス15・16世紀の愚者演劇の知的営為における聖と俗の葛藤が結果としてもたらしうる新たな展望の可能性を、「愚者」の言説の分析と歴史・文化・社会背景の総合的な考証と検討を通して探るという課題の最終年度に当たる。 初年度、大部の演劇テクストの整理と読み直しを行って研究の基礎を固めたあと、次年度は視線をテクスト外にも拡げ、演劇道化の超越志向的な知のありようが形成された背景を聖と俗の歴史の中に探るべく、神と道化の関係性を歴史的に洗い出し、その認識と表現の歴史を分析した。3年目も同様の立場から、人文主義や神学と道化の関係性を分析し、愚者像の背後に控える演劇集団の知的背景、彼らの学知や思考法や文化について調査、考察した。 最終年度はこうした演劇道化の知が特にこの時代に栄えたことの意味と働きをめぐって総合的に検討し、以下の解釈を得るに至った。対立関係にある聖と俗の俗に位置しつつも、包括的な視野をもつこのジャンルの知ゆえに生じている聖と俗の葛藤が、聖俗超越への志向性を孕んでいる可能性のあることは、端的には、言説の逆説的、循環的、批評的性格によって説明することができる。即ち、テクストや身ぶりや衣装などパフォーマンスの全体に観察されうる神(聖)へのパラドクシカルな揶揄も、聖と俗の間の循環運動も、根底に貫いている批判的視点も、全ては聖・俗の境界線の攪乱あるいはその対立的図式の無効化に寄与するのであり、その一方、これを主導する主体としての知は聖を客体化・相対化することにより、自らは聖と俗の概念枠組みの外や上に、離反あるいは超越していくことになっているといえる。そしてこの志向性は古代来の道化の認識論史の伝統、中世キリスト教を巡る様々な教義や議論、また古来のパロディ文学の流れと合流することで一つの時代のベクトルと化し、当時の過渡的文化特有のエネルギーを創り出していたと考えられる。
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