《感染》をモティーフとしたフィクションが20世紀末以後あいついで登場しているという文化現象が、世紀転換期の《私》のどのような在り方を示唆しているのかということについて考察した。この文化現象は欧米でも観察できるが、今年度は研究範囲を日本国内に限定した。 《感染》はマンガ、映画、小説、ゲームなどでは、ホラーとして表象され消費されている。2000年以降はインターネットも《感染》経路になる。00年代中葉から、《感染》した人間が他の人間を襲うという、いわゆるゾンビものが主流を占めるようになる。 フィクションにおける《感染》の感染拡大の意味を考えるために、この時期の現実社会における《感染》現象も分析した。①《感染》は感染症自体と感染症パニックという二つの領域でパンデミックとなった。ウイルスと言葉が《感染》の媒体となった。②2004年頃に登場したソーシャル・ネットワーキング・サービスは《つながり》を可能にした。この《つながり》は、《私》が《私》自身を他者の眼差しのなかで自己構成し、《私》をネットワークの中の得意/特異点にした。③《感染》は、「絆」、「ヴァイラル・マーケティング」、「コンピュータ・ウイルス」などのメタファーにも変異し拡がっていった。 《感染》をモティーフとしたフィクション群の分析と現実社会における《感染》の分析から、《私》は感染という《つながり》に恐怖をいだきながら、その一方で魅了されてもいることが分かった。 マクロレベルで確認できた《感染》と《私》との関係を、ミクロレベルで確証するために、《感染》を扱ったフィクションの代表作である花沢健吾『アイアムアヒーロー』を内在的に分析した。この作品では、《私》という単位は崩壊し、《感染》した人々つまりゾンビたちによる巨大な《つながり》が生成しつつある様子が描かれるが、このような事態を、特異ではない《私》の一人が観察し体験する。
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