研究課題/領域番号 |
23520419
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研究機関 | 東京大学 |
研究代表者 |
大野 公賀 東京大学, 東洋文化研究所, 特任准教授 (20548672)
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研究分担者 |
西槇 偉 熊本大学, 文学部, 准教授 (50305512)
呉 衛峰 東北公益文科大学, 公益学部, 准教授 (90458159)
トウ 捷 関東学院大学, 文学部, 准教授 (50361556)
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研究期間 (年度) |
2011-04-28 – 2014-03-31
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キーワード | 李叔同 / 弘一法師 / 豊子愷 / 日中文化交流 / 国民国家 / 西洋美術 |
研究概要 |
本研究は、近代中国における西洋文化受容の草分けである李叔同(りしゅくどう、1880-1942、1918年に出家した後は弘一法師)の日中両国での文化活動、特に李叔同とその周辺の日中知識人の動向に着目し、20世紀前半の日中の文化交流について検証することを目的とするものである。 当初、当該年度(平成23年度)には研究代表者の大野公賀は弘一法師とその弟子の豊子愷が作成した『護生画集』(全6巻、450幅、1929-1973年)の解釈を通じて、弘一法師と豊子愷の芸術観、宗教観を明らかにする計画であった。しかし、弘一法師が1930年代初旬に上海在住の書店主、内山完造を通じて宇治の黄檗宗総本山萬福寺に寄贈した仏典『華厳経疏論纂要』および、それに関して内山に送った礼状が、それぞれ萬福寺宝物館文化殿と内山の遺品から発見されたため、そちらの調査を優先した。その結果、弘一法師や豊子愷ら日本への留学経験をもつ中国の知識人と日本の知識人との交流のうち、これまであまり検証されていなかった仏教面での接点を明らかにすることが出来た。具体的には、弘一法師が日本に寄贈した複数の仏典および、日本の古書店を通じて日本から購入した膨大な量の仏典について、その経緯や背景、日中両国の協力者について検証した。またその他には、李叔同の日本への留学を方向付けた要因として、中華民国の初代教育総長も務めた、当時の代表的教育者である蔡元培や、李叔同の出身地天津の知識人ネットワークの影響についても考察した。 研究分担者の西槙偉や呉衛峰はそれぞれ李叔同の影響により日本へ留学した弟子の豊子愷について、日中文化交流という視点から研究を進めた。同じく研究分担者の鄧捷は、李叔同とほぼ同時期に日本に留学した魯迅が、当時の日本文化および日本経由での西洋文化をどう受容し、どのような影響を受けたかについて、魯迅の著作を中心に検証した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
本研究では、「李叔同(弘一法師)をめぐる日中文化交流の研究:中国の近代化と日本」という課題の下、主として以下の二つのテーマについて検証を行ってきた:(1)李叔同(弘一法師)およびその周辺の日中知識人を中心とした文化交流、(2)李叔同の日本留学および西洋文化受容の背景(国民国家の建設、個の確立)。 各テーマに関する、現在までの研究状況は以下のとおりである。(1)上海在住の書店主、内山完造は魯迅と最も親しい日本人として知られており、当時上海を訪れた日本の知識人、文化人はほとんど皆、内山を通じて魯迅はじめ中国の代表的な知識人、文化人と交流をもった。内山完造と弘一法師との交際については、これまで内山自身や、弘一法師の周辺の中国人作家の随筆などを通じて知られてはいたが、実証的な考察はほとんど見られない。研究代表者の大野公賀は、弘一法師の日本への仏典の寄贈や、日本からの仏典の購入の経緯をたどることで、内山完造やその周辺の日本人知識人と、弘一法師との交流について具体的に論証した。また研究分担者の西槙偉や呉衛峰は李叔同の弟子である豊子愷に焦点をあて、源氏物語や夏目漱石、ラフカディオ・ハーンなど、豊子愷と日本文化あるいは日本経由で受容した西洋文化との関係について考察した。同じく研究分担者の鄧捷は、李叔同や豊子愷も日本経由で影響を受けたニーチェについて、魯迅の受容という視点から検証した。(2)李叔同が西洋美術を学ぶにあたり、欧米ではなく日本への留学を選択した要因について、管見の限り、これまで中国内外で研究は皆無に等しい。大野公賀は、李叔同が1901-1902年に在学した南洋公学の性質および、同校総教習の蔡元培の近代認識、また李叔同の出身地である天津と日本との関係、天津出身の知識人と李叔同との交際などの分析を通じて、経済的には欧米留学も可能であった李叔同が敢えて日本を選択した理由を考察した。
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今後の研究の推進方策 |
今後も、これまでの研究実績をいかし、(1)李叔同(弘一法師)およびその周辺の日中知識人を中心とした文化交流、(2)李叔同の日本留学および西洋文化受容の背景(国民国家の建設、個の確立)という2つのテーマについて、引き続き研究を行う。 また今後は、これまでの研究を通じて生じた、ある疑問をも視野に含めて研究を進めていく。その疑問とは、李叔同が日本留学に際し、その専攻として西洋美術を選択した理由である。李叔同は1905年に日本に留学し、1906年に東京美術学校に入学、1911年に優秀な成績で卒業した。李叔同の留学当時、西洋美術を学ぶ中国人は極めて少なく、また李叔同がそれ以前に受けた教育や個人的な関心、趣味から見て、西洋美術という選択はあまりに意外であり、唐突な印象さえ受ける。それにも関わらず、この問題は管見の限り、これまで中国内外で一度も論じられていない。この問題を考察するにあたり、本研究では当時の日中両国における西洋美術の認識と受容、またその背景として西洋美学および哲学の認識と受容についても検証する。それによって、近代化過程における、日中両国の大きな文化的な流れの中で、その最先端にあった李叔同とその周辺の日中知識人が何を考え、どう行動し、そしてそれが次の世代にどのような影響を及ぼしたかを明らかにする。 また李叔同の周辺の中国知識人として、当初は魯迅や周作人のような同世代や、豊子愷や陶元慶ら次の世代を想定していたが、今後は李叔同の師とも言うべき蔡元培や、その友人で蔡元培に日本語を教えた陶大均、また李叔同が親しく交際していた天津の知識人ら、李叔同よりも一つ上の世代も対象とする。彼らは、李叔同が日本留学や西洋美術専攻を選択するにあたり、重要な役割を果たしたと考えられるため、その日本との関係や日本観を明らかにすることで、李叔同の留学について、より多方面から検証する。
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次年度の研究費の使用計画 |
次年度(平成24年度)には、中国における李叔同(弘一法師)研究の中心的存在である杭州師範大学の弘一大師・豊子愷研究中心にて、第2回豊子愷研究国際学術会議(5月)、第4回弘一大師国際学術会議(10月)が開催される。研究代表者と研究分担者はこれらの会議に参加し、当該年度(平成23年度)の研究実績をふまえ、中国語で研究報告を行う。尚、その際に提出する論文(中国語)は論文集として中国で出版される予定である(出版経費は先方負担)。研究代表者の大野公賀は、上記会議への参加とは別に、夏季休暇を利用して中国に1~2ヶ月ほど滞在し、上海・天津・アモイ・泉州など弘一法師に縁の地で関係者にインタビューをし、また上海図書館にて日刊紙『太平洋報』(主筆:李叔同)を調査し、李叔同の描いた図案や広告等を収集する。 また大野公賀は『護生画集』第1巻、第2巻の画賛の全訳と解釈を行う。これらは当初、当該年度に行う予定であったが、弘一法師寄贈の仏典などの新資料の発見にともない、当該年度内に完了できなかったため、次年度に実施する。また当初は次年度に計画していた同書の第3巻、第4巻については、第1巻、第2巻の完了後に着手し、次年度に第3巻まで完了させる予定である。 研究分担者の西槙偉、呉衛峰は李叔同の文芸観の後継者である豊子愷の活動に着目し、その分析を通じて李叔同の文芸観を分析する。具体的には、豊子愷が最も愛した日本人作家夏目漱石に関する著述や、漱石作品の豊子愷による翻訳を検証することで、李叔同と豊子愷が日本に滞在した明治・大正期の日本の文芸思潮が中国で受容される過程や経緯について考察する。鄧捷は、李叔同とほぼ同時期に日本に滞在していた魯迅の著述や、魯迅による日本・西洋の文芸作品の翻訳の分析を通じて、魯迅経由で中国に伝えられた当時の日本の文芸思潮について検証し、李叔同や豊子愷経由でのそれとの異同について考察する。
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