研究課題
中国古典文学作品において、伝統的な詩文を主たる対象として、内容面と表現面の双方からタブーとなっている事例を捜求して、どのような法則性があるのかについて考察した。漢代から唐代にかけての詩において「罪」なる語は、ほとんど見られない。唐の白居易の詩題等において自らが罪を犯したというのは、天子に対して自らを卑下したレトリックの一種に過ぎない。詩中に見られない理由は、詩たるジャンルにおいて「罪」といった問題を取りあげるべきではないというタブーの意識があって、自己規制が働いていたからであろう。その証拠に、楽府などの民間歌謡には時々「罪」が出てくる。たとえば「爲焦仲卿妻作」(『玉台新詠』巻一)には、焦仲卿の妻が義母に追い出されて実家に帰った時に、実母に向かって自分には何の罪過もないと言う。こうした「罪」は、精神的な罪の意識ではなく、過失といったきわめて日常的な語であって、通常の詩文においては用いないのである。唐代の杜甫は従来の詩のタブーを破ったことで知られる。それは形式面ではなく、内容面においてである。「三絶句」其の三では、自国民を守るための皇軍が逆に自国民を虐殺していることを批判している。異民族の奴隷を主人公としても取りあげた詩もある。漢族の平民であってこそ、公の文献や通常の詩文に取りあげられるところを、異民族であり奴隷である人物を詩において称賛するのは、これまでの詩におけるタブーを大きく破ったと言える。杜甫の詩は、皇軍の実態を描く点や人に対する博愛平等の見方においてこそ、大いに革新的であると言えよう。
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集刊東洋学
巻: No.110 ページ: 82-95
未名
巻: 31 ページ: 117ー132