まず文学の拠点としての天津水西荘の最盛期を支えたのが杭州詩人達であった事実を明らかにし、その活動内容と彼らの遊歴の理由について考察した。唱和集『沽上題襟集』とその前後に及ぶ時代まで取りあげ、天津において長期にわたる杭州詩人集団の活動があったことを明らかにした。また唱酬以外に杭州詩人が天津で行った文学活動を、地方誌編纂、雑事詩の作成、絶妙好詞箋の作成などの面から考察し、それぞれが個人の活動ではなく、複数の杭州詩人が参加する形で行われたこと、また天津水西荘の主要刊行物に杭州詩人の序があることから、水西荘の文学活動の中心的担い手が杭州詩人集団であったこと、更に杭州詩人が天津に移動した理由として、詩人の貧困、当時の杭州詩壇の人気の両面から考察した。 続いて、杭州詩人が移動した揚州と天津の両地での唱和集『沽上題襟集』と『韓江雅集』を比較検討し、地方詩壇の特長と、唱和集における詩風の特長を考察した。まず『沽上題襟集』が『草堂雅集』に倣い唱和詩以外を収録すること、『韓江雅集』は『月泉吟社』に倣い、唱和の実態を伝える形式になっていることを明らかにした。その原因として、揚州は出資者が多く、詩会の都度詩集を出版し、その記録が残されていたこと、天津は査氏のみが出資し、詩会の詩集出版がなかったこと、等を挙げた。更に詩風については、天津では人との交流を主に詠い、揚州では、詠古蹟、詠物、詠詩などが多く、所謂浙派の特色を備えていることを指摘した。 これらを通じて従来構成員のみが論じられてきた地方詩社について、客人たる杭州詩人の移動の理由、彼らの地方での多岐にわたる文学活動の実態を明らかにすることができた点は重要である。又詩会が多く開かれた場において、浙派風の詩が多く生まれていることを指摘し、浙派詩が唱酬の場で育ったものであることを明らかにした点は、これまでの文学史で指摘されてこなかった点である。
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