本研究は、東北方言に残存する八行唇音の実相とその口形上の特徴を明らかにするとともに、その両者をつき合わせることで、当現象が衰退していく過程の段階的特徴を抽出することを目的とするものである。 一昨年度は、それらの考察の土台を築くべく、日本海沿岸地域の代表5地点に絞った調査を集中的に実施した。昨年度は、青森・秋田・新潟県より広く地点・話者を求め、実相と口形のバリエーションおよびその分布の把握を目的とした調査を実施した。本年度は、以上の2ヶ年の調査から、現象の痕跡が明確であり、かつそのバリエーションが最も顕著にみとめられた秋田県に対象を絞り、これまでに明らかになった知見を検証するための補充調査を行った。 その結果、1)東北方言のハ行音には典型的な両唇音が残存するが、口唇形状の面からは、さらに円唇的なものから非円唇的なものにかけての諸段階が分類されること、2)それと同時に唇歯音の段階、それがさらに衰退したと思われる平唇的な摩擦音の段階がみとめられること、3)最終的な結果音は声門音であるが、発音直前までは両唇音もしくは唇歯音のそれを志向するような口唇の動きを見せるものがある(つまり口形のみに唇音の痕跡をとどめるものがある)こと、4)加えて同一個人の発音が、上記の両唇音と唇歯音の二通りに現れるものがあり、ハ行唇音の痕跡の在り方はさらに多様であると見なされること、5)このように、調音上の視覚的特徴に着目して見ていくと、聴覚的には分別しにくいものの中に、性格の異なる唇音の諸相が抽出されること、6)そうした視覚上に顕在化する差異は、唇音が衰退していく過程の段階的特徴を示唆するものと考えられること、7)ハ行唇音の変化を考えるにあたっては、聴覚的な結果音を頼りに唇音の有無を分別するだけではなく、視覚的な口唇の特徴を併せ捉えることによりその実相に迫る必要があることが明らかになった。
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