1925年に設立されたアジア・太平洋地域の調査・研究を目的とする国際的非政府組織「太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations)」(IPR)とアメリカ政府の関係を実証的に分析することにより、IPRがアメリカ政府への影響力行使を模索したのに対して、アメリカ政府はIPRを政策の補完手段として利用するようになったことを明らかにした。 IPRの実務責任者であったカーター(Edward C. Carter)国際事務局長は、ホーンベック(Stanley K. Hornbeck)米国務省極東部長を媒介として、1930年代初めよりアメリカ政府に接近を図っていた(高光佳絵「戦間期アジア・太平洋と国際的民間団体」北岡伸一監修、川島真編『近代中国をめぐる国際政治』(歴史のなかの日本政治 第3巻)中央公論新社、2014年刊行予定)。カーターは、アメリカの国益増進に寄与したいと考え、極東情勢に関する情報提供を継続的に行い、その彼の分析を含む情報によりアメリカのアジア・太平洋政策に影響を与えようとしていた。一方、ホーンベックは、当初、公人としてIPRと一定の距離をとるよう努めていたが、1930年代末に至り、IPRを国務省の政策を補完するものとして積極的に利用するようになった。 IPRは、1950年代のマッカーシズム(赤狩り)期に共産主義スパイの嫌疑をかけられたが、実際には一部の会員以外はアメリカ主導の自由貿易秩序に日中両国を組み込む方向性を支持しており、この秩序確立の障害となる動き(1920年代末の中国革命外交、1930年代の日本の排他的経済圏の追求)に批判的であった。特にカーター国際事務局長は、ローズヴェルト政権の対ソ宥和、対日経済制裁実施の方向性を支持しており、これを推進するための根拠となる情報提供を積極的に行っていたことが明らかになったと言える。
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