研究課題
在外アルメニア人によるソヴィエト・アルメニアへの「祖国帰還」運動は、冷戦の昂進に伴って在外民族主義政党ダシュナク党が反ソ宣伝を開始したことや、ラテンアメリカ諸国のように、ホスト国が移民を失いたくない思惑からアルメニア系住民の出国を許可しないといった非協力的態度、さらにはソヴィエト・アルメニア自体の帰国者受入れ体制の不備などにより、1950年代には徐々に失速していった。特に、在外アルメニア人社会の中に戦間期から存在していた親ソ派と反ソ派との対立が、冷戦の固定化により深刻化したことは、1950年代以降の在外アルメニア社会の分裂を促進する結果となった。その象徴的な事件が1956年に行われたキリキア・カトリコス(アルメニア教会の首長)の選挙であった。そもそも、カトリコス座は、第一次世界大戦時にはエレヴァン郊外のエチミアジンと現在のトルコ東南部のキリキア地方のスィスに置かれていた。第一次世界大戦中、スィスのカトリコスは、オスマン軍の攻撃を逃れ、各地を転々とし、1930年にベイルート郊外のアンテリアスにキリキア・カトリコス座を構えた。このキリキア・カトリコス選挙は、前カトリコスのカレキン1世が1952年に逝去してからもしばらく延期になっていたが、53年『アルメニアン・レビュー』誌の第6号で親ダシュナク派が、カトリコスの就任をソヴィエトの傀儡のエチミアジン派が画策していると批判したのを契機に反ソ派の教会関係者と親ソ派の関係者の論争が開始された。そして、56年2月19日に行われた選挙では、ダシュナク党がレバノン大統領シャムンの支持を取り付け、親ダシュナク派のザレフ1世が勝利した。その際エチミアジンのヴァズゲン1世がこの選挙結果を無効とするようレバノンの大統領に働きかけていたことが発覚し、在外アルメニア教会の組織はキリキア派とエチミアジン派に完全に分裂することになった。
2: おおむね順調に進展している
シリアのアルメニア人コミュニティ紙の収集が、シリア内戦のために困難をきたしていたが、部分的にアルメニアやレバノンの図書館にも収蔵されていることが分かり、昨年度の遅れを多少取り戻せた。
第二次世界大戦後の在外アルメニア人社会でソ連邦に対して好意的な世論が醸成される契機となった、1945年のソ連政府がトルコに対して行った外交圧力に関する史料をさらに収集する。さらに、在外アルメニア人がソヴィエト・アルメニアに対して抱いていたイメージを、親ソ的および反ソ的な在外コミュニティ紙を用いて具体的に描く。
当初海外のシンポジウムで研究成果の発表を計画していたが、公務日程の都合で参加を断念したため。
最近の円安傾向により、海外調査の経費がかさむため、次年度の長期調査で吸収可能。
すべて 2015 2014
すべて 雑誌論文 (3件) (うち査読あり 1件)
Hidemitsu Kuroki (ed.), Human Mobility and Multi-ethnic Coexistence: Tehran, Aleppo, Istanbul, and Beirut, Studia Culturae Islamicae (ILCAA, Tokyo University of Foreign Studies)
巻: 102 ページ: 103‐113
松本弘編『中東・イスラーム諸国民主化ハンドブック2014』(NIHUプログラム「イスラーム地域研究」東京大学拠点)
巻: 2 ページ: 121‐134
総合地域研究
巻: 4 ページ: 15-19