戦国時代各国の離宮群が秦王朝の時代に至ってから一律に禁苑と呼ばれ始めたことは、1989年に出土した龍崗秦簡にみえる禁苑に関する秦律の発見から明らかになった。したがって、筆者は秦王朝が全国を統一してすぐ旧国の残した離宮を利用し、もとの戦国時代の秦の離宮と統合して独特な秦帝国の政治システムを造り出そうとしたことを考えて、それを「秦帝国式的な政治綱目」と名付けて本研究の計画を立てた。25年度は計画の最終年度であり、予定の通りに以下の研究目的を達した。 (一)旧韓趙魏の禁苑における始皇帝が巡幸の途中客死した、龍崗秦簡にはっきり記された「沙丘苑」や睡虎地秦簡にも登場する「河禁」が禁苑かどこかと内モンゴル包頭の黄河沿岸における建築遺跡やまた始皇帝の最後あとの死体を運搬した道沿線の行宮を含む調査と研究を行った。 (二)25年度は前年度に実地踏査を完了できていない場所も調査した。特に、東海沿岸にある会稽山・秦山島における始皇帝みゆきの宿泊可能の場所を調査した。 最終年度の調査と研究は、基本的には23・24年度の研究成果に基づいて総合的な方法で本研究の主題となる秦帝国における地方禁苑群に関する研究を行った。その主たる研究計画は以下の三つである。 1)秦と旧六国禁苑の相違性について、これまでの研究の成果をまとめた。2)禁苑群と帝国都の関係についての研究は本研究の正念場ともいえ、中国と日本両側における都城史研究の専門家と意見交換できる検討会を開いた。3)専門家と意見交換したことは以下のとおりであった。①は秦時代あとの中世や近世中国の禁苑との比較により、秦王朝における禁苑の特質への再確認をした。②日本における天皇の禁苑と比べて(例えば『延熹式』にも登場する「ぜん」と龍崗秦簡にみる「ぜんとの比較研究)、なお、秦王朝禁苑の位置つけについても検討した。そのうちに、今後さらに東アジア禁苑の比較研究を予定した。
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