『預言者ムハンマド伝』や、コーラン・ハディース関連の文献歴史資料を用いて、喜捨、断食、巡礼などイスラムを代表する儀礼の成立、変遷を分析した。コーランを除けば史料の多くはアッバース朝時代にまとめられたものであり、同朝の史観をもとに故意に修正が加えられていると考えられる。特にムハンマドの伝記の決定版とも言える「預言者伝」については、史料の根本的な読みかえが必要であり、今後、ムハンマドの時代の通常の歴史理解は大きく修正され得ると考える。 このような観点については、2014年5月に行った、オリエント学会公開講演会において披露し、「マフズーム家の研究」東京女学館大学紀要第11号において、さらに追跡調査を実施した。ムハンマドの時代を研究する上で、依拠してきた史料は、8-10世紀頃のイブン・イスハーク、ワーキディー、イブン・サアド、タバリーなどのアラビア語歴史書である。イブン・イスクの預言者伝に顕著に見られるように初期史料でマフズーム家が批判的に描かれるのは、マフズーム家がウマイヤ朝と密接な関係を持って、ウマイヤ朝時代に権勢をふるったことが原因である。第二次内乱(683-92年)においてウマイヤ朝シリア軍とメディナ住民との間で戦われたハッラの戦い(683年)で、メディナ側は多くの戦死者を出した。侵攻したシリア軍によりイブン・アル・ズバイルが立てこもったメッカは大きな損害を受けた。メディナのアンサールや、ヒシャーム・ブン・ウルワ(イブン・アル・ズバイルの甥)の一族を主な情報源としたイブン・イスハークの預言者伝が、ウマイヤ朝権力を呪い、死者を慰める「鎮魂の書」としての性格を帯びるのも当然と言える。 こういった視点を提示することで、イブン・イスハークの史料の性格の一端が浮かび上がったと言える。
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