本研究の主目的は、帝政ロシアにおいてヨーロッパロシアからアジアロシア(ウラル以東の地域を総称する地理的概念)への移住・入植が実際にどのように行われていたのか、一次史料に基づいて再現することにある。一昨年度・昨年度と同様、最終年度もロシア国立歴史文書館とロシア国立図書館にて3週間の資料収集を行った。 1880年代以降、アジアロシアへの移住および入植・開発の推進は、帝政ロシア政府にとって重要な国家的事業となっていた。しかしながら、もう一方の当事者である移住農民は、政府の移住支援策は利用しつつも、必ずしもその思惑通りには行動しなかった。帝政期からソヴィエト期を経て現在に至るまで、ロシア国内外で膨大な数の移住研究が公刊されているのにもかかわらず、主体者としての移住農民の行動論理については未だ十分に解明されているとは言いがたい。移住農民自身が書き残した史料がほとんど存在しないに等しい状況の中で、その意思や論理を明らかにするのは簡単なことではない。そこで本研究の最終年度では、移住者の具体的な行き先を、移住許可を得ている場合と無許可移住の場合に分けて送出県ごとに分析することにより、移住者自身の主体的な判断が移住先の選択の局面にどのような形で現れているのか、統計データに基づいて明らかにした。 本研究では、統計データの分析と並行して、文書館所蔵の未公刊史料から政府の移住政策の変遷を詳細に検討してきた。19世紀から20世紀初頭にかけての移住政策は、移住農民を上から保護・監督し、政府当局が移住の動きを合理的にコントロールしようと試みるものだったが、ストルィピン改革期にロシア社会全体が大きく変化する中で、移住政策の基本方針も「移住の自由」へ向けて大きく舵を切ることになる。このような移住政策の大転換に関する研究は、今後も継続する予定である。
|