2015年3月にドイツで開催されたルネサンス学会に参加し、その前後の期間の文献読解と合わせて、研究テーマについて以下の知見を得た。 ルネサンス・イタリアにおける統治進言書(ペトラルカ、パルミエーリ、パトリッツィ、ブルーニ、マキァヴェッリ、ボテロら)は、政治的自由(=共和主義的自由)を政治制度や統治者の世襲の血筋によってではなく統治者個人の徳によって保証しようとする点で、「徳の政治学」(James Hankins)とでも呼ばれうる志向性を共有している。イタリアの統治進言書を北方人文主義のそれ(エラスムス、エリオット)と比較した際の特徴は、その統治者の徳が、北方人文主義のような道徳的徳というよりも、マキァヴェッリ的な政治的効用を視野に入れた個人の政治的能力としての徳の側面が強かった点に見いだされうる。徳をそれ自体の道徳性から判断するのではなく、政治的効用=結果によって判断する志向が強まったのはなぜであろうか?私見による仮説は、それがイタリア・ルネサンスにおけるルクレティウスの哲学=原子論的快楽主義の復興の影響ではないか、というものである。 本研究課題とは直接関係しないが、筆者は、2015年に発表したレオ・シュトラウスのジョン・ロック解釈をめぐる拙論において、ロック思想にみられる快楽主義とアヴェロエス哲学との関連をシュトラウスによるロック解釈の検討を通じて示唆した。後付け的ではあるが、ロック思想における快楽主義とその哲学的源泉をめぐる拙論が、本研究課題最終年に得た知見――すなわち功利主義と原子論的快楽主義との関係の政治思想史的顕現――と関連することとなった。
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