ロンドン、台湾に出張してアーカイブにおける一次資料調査、及びインタビュー調査を行った。ロンドンでのアーカイブ調査では、戦後日本及び英国の地域主義政策と中国問題の関連を示す外交資料を収集した。1954年以降の多国間援助枠組み(コロンボ会議など)に関する資料まで領域を広げて確認した。加えて、ASEAN関係文書、マレーシア・シンガポールなどの英連邦との連絡文書なども多数収集し、①アジアにおける戦後の中台分断が、米ソ関係ではなく英米関係に起因するものである、②戦後日本の実務的多国間主義の中では不承認国家である中国との接触可能性があった、という知見を得た。 台湾では1970年代に対東南アジア関係、対米、対国連関係を担当していた元外交官複数名に対するインタビュー調査を行った。細部にわたる話を聞いたが、最重要なのは、東南アジア諸国との外交関係断交については、部局内で実質上、A.親英諸国(マレーシア、シンガポール)、B.親米諸国(フィリピン、タイ)、C.「中立」諸国(インドネシア、ビルマ)などに分けたアプローチが構成されていたとの証言を得た。この分類では実はAの親英諸国が最も困難(台湾との外交関係樹立が困難、英国に倣い対中承認が予期される、という点で)と認識し諦めてことから、現場担当者には有能な人間を配置することさえしなかった。 これが、台湾・マレーシア断交及び民間実務関係再構築に関する外交一次資料が欠落している決定的な理由であった。本研究は外交資料不足を補う意図から計画されたが、その大前提となる背景を確認することができた。つまり、戦後アジアにおける「二つの中国」状態を生み出したのは、軍事安全保障レベルから観察すれば米ソ関係だといえるだろうが、「日本方式」の研究が焦点を当てている政治外交レベルからの観察では、米英の対中政策の不同意が主原因であったといえる。
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