これまで、怒り顔の優位性について、空間的注意(視覚探索課題)と時間的注意(高速系列視覚提示課題)、さらに視覚処理様式(合成顔課題)の観点から検討した。その際、課題に大きく影響する低次の刺激特徴である歯の露出を統制した。その結果、空間的注意・時間的注意の両面において、怒り顔の優位性は観察されなかった。したがって、怒り顔の優位性が少なくとも頑健な現象ではないなら、その現象の生理学的基盤として仮定されている皮質下視覚経路についても、その機能について再検討する必要がある。 Pessoa & Adolphs(2010)は、怒り情報が、皮質を経由せず、皮質下視覚経路によって扁桃体に伝えられ、そこで感情処理が行われるという考え方を標準仮説と呼んでいる。標準仮説では、皮質下の処理は皮質経由の処理と比較して、情報の解像度は粗いが高速であること仮定されている。彼らは、感情を処理する脳の部位は扁桃体に限定されないこと、扁桃体は恐怖や怒りのみならず幸福や中立の表情に対しても反応すること、皮質経由の処理が皮質下の処理と比較して決して遅くないこと、上丘、視床枕、扁桃体には皮質の多くの領域と双方向の連絡経路が存在することを指摘した上で、扁桃体の機能を怒り感情の処理に限定せず、生体にとって重要な刺激の評価へと広げている。つまり、皮質下視覚経路に設定された恐怖の感情処理は、その経路が担う機能のうちの1つに過ぎないと考えている。また、怒り顔を空間周周波数の観点から検討したSmith & Schyns(2009)は、怒り情報は低空間周波数領域には含まれず、皮質下に想定されている低空間周波数領域への感受性とは整合しないことを指摘している。 したがって、本研究において怒り優位性が観察されなかったことは、皮質下経路を怒り表情専用の処理モジュールと仮定しないならば、整合的に解釈することができることが明らかになった。
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