研究課題/領域番号 |
23531002
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研究機関 | 愛知教育大学 |
研究代表者 |
高橋 裕子 愛知教育大学, 教育学部, 教授 (30206859)
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キーワード | 日本 |
研究概要 |
本研究では、岐阜県中津川興風学校を事例とし、明治維新後、地域の知識人の手で進められた学校づくりの文脈で、学校衛生史を実証的に明らかにする。具体的には、第一に、学校衛生が制度化される明治30年代以前の、同校独自の学校衛生的活動と思想を学校創始者・教員という人物単位でとらえる。第二に、学校創始者・教員それぞれの思想基盤や社会的位置づけを明らかにすることによって、社会思想史としての学校衛生史を描写する。仮説として、学校衛生への着眼も、学校創始と同様、地域先導であり、この地域社会が幕末期・平田国学門人として培われた、先見性・地域の独自性への志向・組織づくりが反映されているのではないかと考えている。 平成24年度は、中津川における学校衛生制度の移入について、主に次の3点から検討することを計画した。1)初代学校医・林淳一の活動実態、2)林淳一の中津川地域における位置づけ、3)林淳一の学校医活動と政府による学校医制度との関係(先駆性)。 その成果は次の学会発表・研究論文等によって公開した。①学会発表:高橋裕子「地域の学校衛生史に関する検討(4)―三島通良と三宅秀の学校医論」第59回日本学校保健学会 神戸国際会議場 2012.11。②研究論文:高橋「明治政府の学校衛生政策と学校現場ー中津川興風学校の学校医活動ー」『日本教育保健学会年報』第20号 2013.3。③高橋「中津川興風学校の学校衛生活動年表2-『中津川興風学校日誌』(明治38~45年)を資料として-」『愛知教育大学保健体育講座研究紀要』36号2013.3 。 これらの成果はいずれも本研究全体の仮説を裏付けるもので、中津川興風学校では政府の学校医制度の勅令後速やかに初代学校医が赴任し、かつ、学校医制度では治療行為はその職務に含まれていないのにも関わらす、当時のトラホーム大流行を眼の前にして率先して学校医の治療に踏み切っていた。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
今年度は、特に、明治30年台に政府による学校衛生制度の移入、特に、明治期の学校衛生を牽引した学校医制度が焦点をあて、まず、政府の学校医制度と政府の学校医職務の考えを明らかにした上で(①学会発表:高橋裕子「地域の学校衛生史に関する検討(4)―三島通良と三宅秀の学校医論ー」)、中津川興風学校での学校医活動実態(③高橋「中津川興風学校の学校衛生活動年表2-『中津川興風学校日誌』(明治38~45年)を資料として-」)を比較することによって、制度と実態の関係を具体的・実証的に明らかにした(研究論文:高橋「明治政府の学校衛生政策と学校現場ー中津川興風学校の学校医活動ー」)。その結果は、上記の「研究実績の概要」に示したとおり、本研究全体の仮説を裏付けるもので、中津川興風学校では政府の学校医制度の勅令後速やかに初代学校医が赴任し、かつ、学校医制度では治療行為はその職務に含まれていないのにも関わらす、当時のトラホーム大流行を眼の前にして率先して学校医の治療に踏み切っていた。中津川興風学校の先駆性が実証的に明らかにできた。
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今後の研究の推進方策 |
次の3点を計画している。 ①24年度の学会発表、高橋裕子「地域の学校衛生史に関する検討(4)―三島通良と三宅秀の学校医論」第59回日本学校保健学会 神戸国際会議場 2012.11を、両者の教育経験からの考察を補強し、論文化すること(投稿)。 ②23年度中に、全国の地方私立衛生会関係の資料が入手できたので、これによって、中津川地域のみならず、全国各地における学校衛生と地方衛生の接点について、大まかに捉える検討を行い、中津川地域の先駆性に関して客観的な検討を加えること ③3年間の研究全体の総括をすること。 出来れば、本研究対象の明治期の「医学的学校衛生」の次の段階、すなわち、大正期「社会的学校衛生」・昭和期の「教育的学校衛生」の研究課題を概観したいと考えている。特に後者については、本研究が対象とした中津川が存在する岐阜県において、初代学校衛生主事・技師として大正期の地方学校衛生行政の外郭づくりに貢献し、後、文部省の学校衛生官になり、昭和初期の学校衛生行政に取り組んだ大西永次郞の学校衛生観や取り組みに焦点をあてれば、日本における健康教育の端緒などを明らかにするための問題(課題)を提示できると考えている。
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次年度の研究費の使用計画 |
該当なし。
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