研究課題/領域番号 |
23531012
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研究機関 | 香川大学 |
研究代表者 |
櫻井 佳樹 香川大学, 教育学部, 教授 (80187096)
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研究期間 (年度) |
2011-04-28 – 2014-03-31
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キーワード | 教養 / フンボルト / 書簡 |
研究概要 |
「ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの『教養』理念形成と『愛の書簡』に関する研究」は、フンボルトが妻カロリーネと交わした膨大な「愛の書簡」を研究対象として、その社会史的・思想史的意味の解明、ならびに彼の日常的な「愛」の実践と思想が、彼の「教養」理念形成にいかなる影響を与えているかを解明しようとするものである。 平成23年度は、当時における「書簡」メディアの果たした役割について明らかにすることを目的とした。その一貫として、平成23年9月から10月にかけて、ドイツ連邦共和国に滞在し、必要な文献・資料を収集した。ゲッティンゲン大学では、フンボルト研究者のケーラーとライツマンの往復書簡、イエナ大学ではライツマンが収集したフンボルトの書簡の写し等の資料を入手した。フンボルト夫妻は全7巻の膨大な書簡集を遺しているが、これらの読解では不十分だからである。 二人にとって「書簡」がどういう役割を果たしていたのか。書簡は心の内面を打ち明けるという「秘密」の「共有」によって「親密化」を促進する機能と同時に、文字に残されたテキストを第三者が読むことによって暴露されるという「公開性」を有する独特のメディアである。「育徳(美徳)同盟」のなかで、お互いを理解し、「道徳的陶冶」を推進するためには、会員は互いに内面的な秘密を打ち明けねばならないという「規則」を設けていたため、愛の書簡をやりとりするという親密で私的な行為が公にされるという独特な構造におかれていた。こうした仕組みが、なぜ構想され、その後破綻したのか、ジンメル『社会学』(1994)、葛山泰央『友愛の歴史社会学』(2000)等を参考に考察した。背景として、ルソーの『新エロイーズ』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』など書簡体小説の影響が認められた。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
平成23年度で達成すべき最大の課題は、平成23年9月から10月にかけて、ドイツ連邦共和国に滞在し、必要な文献・資料を収集することであった。ゲッティンゲン大学では、フンボルト研究者のケーラーとライツマンの往復書簡、イエナ大学ではライツマンが収集したフンボルトの書簡の写し等の資料を入手した。またマールバッハのドイツ文学資料館では、フンボルトの妻カロリーネから友人シャルロッテ・シラーへの書簡の写しを入手した。ライツマン が収集したフンボルトの書簡の写しには、「育徳(美徳)同盟」時代のメンバーであり、かつ友人のカール・ラロッシュ宛ての書簡が含まれていたが、それはフンボルトがカロリーネと婚約・結婚する経緯について解明する手がかりとなる重要な資料だと言える。本研究(「ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの『教養』理念形成と『愛の書簡』に関する研究」)は、フンボルトが妻カロリーネと交わした膨大な「愛の書簡」を研究対象として、その社会史的・思想史的意味の解明、ならびに彼の日常的な「愛」の実践と思想が、彼の「教養」理念形成にいかなる影響を与えているかを解明しようとするものであるが、両者の往復書簡だけでなく、その他友人等様々な関係者とのやりとりを明らかにすることは、研究上不可欠であり、そうした点で今回の資料収集は有意義なものであった。 なお、こうした資料の活用は、論文に直接反映できるものもあれば、できないものもある。本年度のテーマは、書簡や書簡体小説の果たした役割である。それらの一般的な傾向をさらに分析し、それらの動向の下に、フンボルト夫妻、並びに関係者の書簡の意味づけという課題を進めていかねばならない。
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今後の研究の推進方策 |
平成23年度で着手した研究テーマについては、引き続き研究を進める。18世紀における「書簡」並びに「書簡体小説」の果たした一般的な役割、またフンボルトとカロリーネとの関係、ならびに「教養」理念形成に果たした役割についてはさらに整理し、京都大学大学院の矢野智司教授が主催する研究会(交換と贈与の研究会)ならびに中国四国教育学会で発表する。 また平成24年度の主たる課題は、フンボルトとカロリーネの二人の関係に焦点を当て、愛についての理論と実践がいかにフンボルトの「教養」理念形成に寄与したかを解明することにある。したがって二人の往復書簡とフンボルト初期の著作の比較分析が中心的な作業となる。フンボルトとカロリーネの書簡集並びにドイツで収集したその他の書簡資料や書簡集、二次文献等を読解し、分析する。「育徳(美徳)同盟」への入会を介して、互いに面識のないまま、書簡の交換を始めた二人だが、フンボルトによる1788年7月の最初の訪問以後、急速に二人は親密になる。そして1789年12月に婚約、1791年6月に結婚に至った。その間ベルリンで公務員の道を歩み始めたかに見えたものの、結婚直前に司法官補の職を辞した。そして「宗教について」(1790)、「国家機能限界論」(1792)、「陶冶の理論」(1793)などの初期著作を執筆している。したがってこの時期の二人の愛についての理論と実践がいかにフンボルトの初期著作における「教養」理念形成に寄与したかを解明する。
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次年度の研究費の使用計画 |
1.「フンボルト『教養』理念形成」関係図書購入2.「『愛』『書簡』の社会史的研究」関係図書購入3. 資料収集旅費(東京)4. 研究成果発表旅費(京都、山口)
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