研究課題/領域番号 |
23531031
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研究機関 | 関西学院大学 |
研究代表者 |
宮本 健市郎 関西学院大学, 教育学部, 教授 (50229887)
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研究分担者 |
佐藤 隆之 早稲田大学, 教育・総合科学学術院, 教授 (60288032)
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キーワード | 講堂 / 進歩主義教育 / アメリカ合衆国 / 多目的室 / デューイ / 集会場 / ゲーリー・プラン / プロジェクト学習 |
研究概要 |
アメリカの小学校で講堂が普及した経緯は、つぎのようにまとめることができる。アメリカの小学校は、1930年頃まで、半数以上が一教室校舎であった。小学校にはひとつの教場しかなかった。19世紀の半ばに教場が教室に分割されたとき、校舎内を移動するために廊下とホールが必要になった。ホールは、通路としての意味もあったが、同時に生徒が公開の口頭試問を受けるための場所として、また、生徒の学習成果住民に発表するためにも利用された。このようなホールは教室数の多い中等学校で19世紀半ばに現れ、19世紀末には大規模な初等学校にも普及した。教室の多い大規模校では、ホールが朝礼などで全校生徒が集まる場所としての機能も持ち、集会場と呼ばれるようになった。集会場が、校舎のなかで独立し、ステージをもつようになったとき、講堂が成立した。 講堂が普及した原因としては二点を指摘できる。第一に、講堂が地域と学校との接点としての機能をもったからである。デューイを代表とする進歩主義の教育者は、学校と地域とのつながりの重要性を強調していた。講堂はしばしば地域住民に開放され、利用されたのである。第二に、進歩主義の教育者が、講堂での活動が児童の社会性の形成や学校精神の形成に貢献すると主張したからである。 しかし、1930年代になると講堂をもたない校舎が再び増え始め、規模も小さなものが増えた。進歩主義の教育者は、児童の自己表現や多様な活動、また集団活動への自由な参加の機会を増やすには、講堂は大規模である必要はないと主張し始めた。大規模な講堂でなくても、多目的室のほうが有効であり経済的であると、多くの建築家や教育者が考えたのである。このように、進歩主義の教育思想が、講堂および多目的室の普及と深いつながりがあったことが明らかになった。 以上の実態は、ニューヨーク市の事例のなかで具体的に確かめることができた。
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