研究課題
ある種の学習には、その時期にしか習得できない臨界期、あるいは感受性期と呼ばれるものが存在する。なかでも、巣を持たない鳥類のヒナが、孵化してから数日の間に親を記憶して追いかける刷り込み学習はその典型例である。刷り込みの臨界期の生化学的な分子機構、特に時期を決定する因子は140年間不明であったが、ニワトリにおける臨界期を開始させる因子が、学習を始めると同時に脳内に流入する甲状腺ホルモンであることを発見した。cDNAマイクロアレイとRT-PCRを組み合わせた網羅的な解析によって、視覚刷り込みのトレーニングの開始1時間後に発現上昇する18個の遺伝子を同定した。その中にDio2(ヨードチロニン脱ヨウ素酵素タイプ2)が含まれていた。Dio2は、甲状腺ホルモンの前駆体チロキシン(T4)から活性型トリヨードチロニン(T3)への脱ヨウ素化を触媒する。発現上昇の速さから、Dio2も最初期遺伝子群に含まれると考えられる。甲状腺ホルモンは甲状腺でT4として合成され、血管中を循環し脳毛細血管の内皮細胞に到達するが、T4は脳血管内皮細胞に存在するDio2によってT3へと変換され、変換されたT3は脳内に流入し、神経細胞に作用することを示した。大脳のIMM領域は刷り込みに必要な領域であるが、刷り込みは各種甲状腺ホルモンシグナリングの阻害剤(IOP:Dio2阻害剤、bromosulphtalein: BSP, モノカルボン酸トランスポーター8阻害剤、NH-3:甲状腺ホルモン受容体アンタゴニスト)をIMMへ注入することにより阻害された。脳内へ流入したT3は、神経細胞またはグリア細胞に存在するモノカルボン酸トランスポーターにより細胞内に取り込まれたのち、細胞質に存在する甲状腺ホルモン(T3)受容体と結合すると考えられた。これらの結果は、甲状腺ホルモンが刷り込みの学習臨界期の扉を開くホルモンであることを示す。
1: 当初の計画以上に進展している
刷り込みの研究は、ノーベル医学生理学賞(1973年)を受賞したコンラート・ローレンツによるものが有名だが、さらに100年前の1872年のダグラス・スポルディングによる報告にまで遡ることができる。以来、行動学的、心理学的、生化学的な多くの考察がなされてきたが、刷り込みの臨界期の生化学的な分子機構、特に時期を決定する因子については未同定のままで、“最大の謎”と評されることもあった。研究代表者はニワトリの場合、孵化後数日間に限定されている臨界期の開始を決定する因子が、甲状腺ホルモンであることを発見した。すなわち刷り込みが成立するためには、学習を開始後甲状腺ホルモンが急速に脳内へ流入し、臨界期の扉を開く生化学反応を引き起こすことが必要だったのである。この反応は急速で、20~30分間の生化学反応(non-genomicな反応)で充分なものであった。学習臨界期は、予め特定の発生時期にプログラムされて開始されるのではなく、後天的な学習(経験)によって開始されることがわかったのである。また臨界期を過ぎ、学習させても刷り込みが成立しなくなった鳥であっても、人為的に甲状腺ホルモンを注射することで刷り込みが可能となることも示した。ヒトにおいても、言語の習得、絶対音感、社会性やストレスへの適切な対応能力の獲得など、幼若期で習得することが不可欠な学習が存在する。今回の研究代表者の研究成果は、臨界期の分子基盤を明らかにするとともに、学習の臨界期を逃しても、再び臨界期を人為的にもたらすことが可能であることを示した。以上の結果は、刷り込み研究におけるブレークスルーであるばかりでなく、学習や記憶の生化学的な脳内の分子基盤を明らかにした点で価値があり、その達成度は高いと考えられる。
Dio2はその発現上昇の速さから刷り込み学習によって誘導される最初期遺伝子のひとつと見なすことができる。Dio2が触媒する甲状腺ホルモンが刷り込みの臨界期を開始させるホルモンであることを明らかにしたことから、次年度はその作用メカニズムを中心に解析を進めていくことにする。まず、甲状腺ホルモンが細胞内の甲状腺ホルモン受容体に結合した後、どのようにしてそのシグナルを伝達していくのかを明らかにする。T3が脳内に作用すると30分以内にプライミングが成立し、一度成立するとヒナは無期限に後の学習が可能となる。そこで、プライミング成立に必要なT3の短時間の神経細胞への作用機構を解明する。予備解析から、細胞内PI3kinase/Akt系の関与と、細胞間Wntシグナルの関与を示す結果を得ているので、各種阻害剤と遺伝子導入(RNAi)を利用した生化学的な解析、ルシフェリン発光を利用したin vivoイメージングにより、関与するタンパクと遺伝子の発現の経時的追跡と定量を行い、記憶成立の分子機構を解析する。これまでスライス切片を用いた解析から、刻印付けによる大脳神経細胞の棘突起数の変動が報告されているが、統計的なin vivoでの報告はない。研究代表者は、2光子励起レーザ走査型顕微鏡を用い、ヒヨコを生かしたまま大脳内の神経細胞を蛍光標識し、棘突起、樹状突起を可視化することに成功した。甲状腺ホルモンと刻印付けによって棘突起、樹状突起の量的変動と形態変化がどの程度おこるかを解析する。そして、蛍光色素(GFP、Venus)標識した神経細胞の形態(棘突起、樹状突起)にどのような変化がおこるかを、2光子励起レーザ走査型顕微鏡を用いて観察する。これら一連の解析を行うことによって、刻印付け学習を可能にする形態的基盤について甲状腺ホルモンをツールにして明らかにしていく。
主に消耗品の使用を計画している。その内訳は試薬購入、実験動物購入、プラスチックおよびガラス器具の購入である。そのほかには旅費(国内)と謝金に充てる予定である。
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http://www.pharm.teikyo-u.ac.jp/
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