1968年の夏季・冬季オリンピックからドーピングは禁止されたが、当時は薬物を使用した方法であった。しかし今世紀に入り、この問題は、「禁止薬物使用のドーピングから遺伝子工学を利用したドーピングの時代へ」と、質的転換期を迎えつつある。この認識は、2009年の世界アンチ・ドーピング機構創設十周年の基調講演における、当時のJ.ロゲIOC会長が「遺伝子ドーピングが今後最も危惧されるドーピング問題」と表明したことにも通じ、「遺伝子ドーピング」問題はスポーツ界の運命を左右するほどの課題である。 最終年度は、研究のまとめとして「遺伝子ドーピング」の問題構造について応用倫理学的視座から考察し、そこでの論点を明らかにした。3つの応用倫理学的視座は、①スポーツ倫理学、②生命倫理学、③現代倫理学であった。①のスポーツ倫理学からは、スポーツの根幹をなす公平性(fairness)の議論と、選手に対する治療(therapy)か、向上(enhancement)かの線引きに関する問題であった。②の生命倫理学からは、遺伝子ドーピングを望む選手とそれを実施するスポーツ医科学者間の医の倫理(インフォームド・コンセント)問題であると同時に、人体実験の対象となる可能性がある選手への安全性の議論が行われた。③の現代倫理学からは、M.サンデルのコミュニタリアニズムのキー概念、つまり、「人間の尊厳と生の被贈与性(human dignity and giftedness)」から議論を展開し、「スポーツが人間を変えるのではなく、人間がスポーツを変えべき」とのA.シュナイダーの主張に与した。結論として、公平性、治療対向上、医の倫理、人間の尊厳と生の被贈与性といった概念からの検討に加えて、「遺伝子ドーピング」はなぜ禁止されるべきかの確固たる理論根拠を多角的に提示することが課題と結論づけられた。
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