本研究-ダックとコリアの比較研究:性と経済から見た水表象の研究-の最終年度にあたり、以下のような総括作業を行っている。 (1)メアリ・コリアの詩(文学的想像力)は二重の意味で「疎外」されていることが最終的な焦点となった。経済-社会構造的な意味で彼女は、ダックと同様に、領主層(ジェントルマン階級)の「しもべ」である住み込み/小作の労働者階級に属していること。そのため、ダックの詩にも見られるように、苛酷な労働によって最底辺の生活を送らざるを得ないことを嘆く。この経済的被支配構造に加えて、農村女性労働者は女性であるがゆえに、ダックの「脱穀詩」のなかでは他の農婦たちの姿となって批判され蔑まれることになる。ダック自身は王侯貴族に「発見」され最底辺層から身を起こすが、コリアの「発見」(洗濯詩の出版)は小さなものに留まり、暮らしぶりは変わらなかった。洗濯女としての彼女の詩には、ダックや男性に対する「恨み」にも似た激しい感情が表出され、その「声」はきわめて率直かつ素朴である。両者の詩の形式的分析を通せば、ダックの方が(改版や海賊版が多数あることにもよって)その声はより「洗練」されたものとなり、人生の悲痛を訴える「魂-詩的想像力」の率直さと素朴さが失われている。 (2)二重の疎外性は、水表象の比較分析によって明らかとなる。比較対象としたA.ポウプの詩における川-テムズ川は「社会/国家」に経済的繁栄もたらす「恵み」の水である一方で、ダックとコリアが語る水は血混じりの汗と涙という「悲哀」の水である。さらに、ダックにとってはつかの間の「癒し」の水であるビール(飲料)はコリアなど農婦たちの労働によって生産されている。コリアにとっての水-ビール飲料は、ダックや領主たちが要求し消費するものでしかない。洗濯の水も苛酷な生活を表象する「悲哀」でしかなく、彼女の暮らしには「恵み」や「癒し」の水は流れないのである。
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