鼻腔から脳へ匂い情報を伝達する嗅覚神経回路は背側と腹側の2つの経路に分離できる。既に確立した背側嗅覚神経回路を除去したマウスに加え、背側と腹側の双方の嗅覚神経回路を特異的に不活性化したマウスを作成した。これらのマウスでは匂い分子の感知や識別能力を正常に保ったまま、匂い分子の意味判断ができないという特異的な異常が認められた。これらのマウスを活用することで、恐怖、食欲、性、母性、攻撃などの動物が生存や繁殖する上で必須となる情動のいずれもが嗅覚神経回路によって先天的に制御されていることを解明した。続いて、先天的な情動を制御する具体的な匂い分子の研究を実施した。これまでは天敵に由来する少数の匂い分子によって先天的な恐怖反応を誘発することが知られていた。しかし、先天的な恐怖反応を誘発する匂い分子の化学構造の特異性を解明するほどの匂い分子のレパートリーは存在しなかった。本研究では先天的な恐怖情動を誘発する匂い分子を人工化合物ライブラリーから探索した。その結果、既知の天然物由来の匂い分子に比較して、有意に高いFreezing誘発活性を持つ人工物由来の匂い分子を数十種類も同定することに成功し、これらの匂い分子を恐怖臭と名付けた。恐怖臭の化学構造と恐怖情動反応の特異性を比較解析することで、匂い分子の化学構造と情動反応とを明確に結びつける化学構造ルールが存在することが初めて明らかになった。続いて、恐怖臭の化学構造ルールと恐怖情動とを結びつける嗅覚受容体の特異性を解析した。約1000種類のマウス全嗅覚受容体遺伝子の発現スクリーニング系を構築し、特定の恐怖情動と嗅覚受容体の活性化との間の相関関係を解析した。その結果、複数種類の嗅覚受容体遺伝子群が恐怖臭に特異的に結合することと、恐怖臭の化学構造の特異性と嗅覚受容体のコンビネーションによって特異的な情動反応が制御されるという新たなモデルが提唱された。
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