平成26年度は、九州各県の地方紙を用いた女相撲ならびに女相撲踊りの事例収集を継続すると共に、女相撲興行についての文献研究を進めた。 これまでの調査によると、長崎市式見の「式見くんち」にて8年に1度披露される女角力は、「興行女相撲団より影響を受けて始められた」とする記録の存在することが判明している。そこで前年度より継続して当時の地方紙の記事を調査しているが、長崎県下での女相撲興行団の巡業に関する記事は発見できなかった。しかし、長崎を含む九州北部の女相撲踊りは、同じくシャツと股引の上にまわしを締めた扮装にて行い、歌舞音曲以外に実際の取組を伴うという点で、女相撲興行と類似した形態を取っている。この点は、華美な衣装やかつら、化粧まわしといった扮装をし、傘などの小道具を用い、取組を伴わないタイプの女相撲踊りが多い九州南部(宮崎、鹿児島)等と対照的である。 その他の民俗芸能としての女相撲は、男性の力士からの甚句の伝授(宮崎市木花等)、徴兵による人手不足による相撲の担い手の男性から女性への変化(佐賀県小城市三日月町堀江)等、男性の相撲の影響を受けたものや、祝賀行事の仮装行列や余興(昭和御大典(昭和3年11月)等)として力士の扮装や相撲踊りを行った事から始まったものなどが存在する。 昭和初期の女相撲興行に関しては、猥褻な見世物とする風俗研究家の平井通による著述(「見世物女角力発生思考」「見世物女角力の変遷」ともに『風俗研究』1929年、「見世物女角力のかんがへ」『歴史公論』 1935年)の影響を受け、「エログロ」「変態」観念との結びつきが強調されていたが、一方で海外巡業など盛んに巡業、興行が行われていた時期でもある。民俗芸能への女相撲興行そのものの直接的影響は確認できなかったものの、間接的影響として、女性達が仮装、余興のモチーフとして力士や相撲を選択する土壌を作った可能性を指摘できよう。
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