インド大乗仏教の唯識思想の大成者である世親(Vasubandhu、400年ごろ)の手になる『釈軌論』(経典解釈方法論)は、もとはサンスクリット語で書かれたものであるがチベット語訳にのみ残る。『釈軌論』は五章から成るが、その第二章は、釈迦の教えを伝える阿含(アーガマ)の経句に対する世親の解釈となっており、一種の仏教辞典として、また世親の思想展開を追う上でも極めて興味深い資料となっている。世親は阿含から103の経節を選び出し、それに対して逐語的、または教理的な解釈を行っているからである。にもかかわらず、その9割以上について、日本語を含む近代語への翻訳や出典比定の作業がなされていない状況にあった。そこで、本研究はチベット語訳にのみ残るその第二章について、テキスト研究としては近年研究や資料が飛躍的に進展している阿含研究を手引きとして出典比定の作業を行うことによりサンスクリット原語を想定しつつ、また内容的には同じ世親の手になる『倶舎論』や徳慧による注釈を参照することにより、より正確なテキストと和訳注を提示することを目指したものであった。 成果としては、その103の経節のうち、ほぼすべてを現存の阿含・ニカーヤに出典比定することができた。もっとも多いのが『雑阿含』で、次いで『中阿含』(前者の半分ほど)であり、『長阿含』からは二経のみであった。また、その解釈内容についても、世親は、煩悩障・所知障、転依、真如、出世間清浄後得世間智、尽所有性・如所有性といったような大乗的・瑜伽行派的な術語を用いて阿含を解釈しているものの、大乗や瑜伽行派からの解釈を前面に打ち出したものであるとは言えないという結論を得た。テキスト校訂や和訳註の成果は折に触れ発表してきたが、和訳注の全貌に関しては、2014年中にまとめて書籍の形で刊行する予定であり、それに向けて引き続き訳語や書式の統一や索引作成を行っている。
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