天保13年(1842)6月、五代目海老蔵は、天保改革における風俗取締政策の一環である奢侈禁止令に抵触したとして南町奉行鳥居耀蔵から江戸十里四方追放の処罰を受けた。江戸を離れ嘉永2年(1849)12月に海老蔵が追放赦免を受けて江戸復帰するまでの約8年間の演劇活動を対象に研究を進めた。追放処罰を受けた海老蔵は成田山で1年間蟄居した後、芝居の場を求めて上方方面に赴いた。 海老蔵は住居を大坂に構え、上方方面の拠点にしていた。したがって、大坂の芝居出演は他の地域のそれに比べて圧倒的に多い。そこで、番付をはじめとする関連資料を、大阪府立中之島図書館や大阪歴史博物館にて複写した。また、大坂の次に海老蔵が多く出演している京都での興行を調査するため、京都大学図書館や京都府立総合資料館に行き、関連資料を複写した。伊勢や名古屋などの地域も幾つか出演しているので、三重県立博物館や三重県立図書館、愛知県名古屋市蓬左文庫、同県西尾市岩瀬文庫、御園座図書館などに赴き、番付や台帳はじめとする関連資料を複写した。その他、成田や静岡、長野、広島、長崎などの資料館や博物館、図書館に赴き、海老藏の興行記録が記されている『御用留』や『御用日記』を複写し整理・翻刻した。こうして江戸追放中の上方方面を中心とする芝居出演に関する資料を収集してきた。その結果、地方におはる観客の動向や演出の相違も判明した。本研究は、海老蔵の江戸以外の地域におはる芝居興行の究明は焦眉の急であるという課題に応えるものである。
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