本研究は、近世の日本語表記について、当時の人々の有していた表記意識と資料に現れた表記実態の両面から分析を行い、両者の相関の様相を考察しようとするものである。平成25年度は、主に以下のような活動を行った。 第1に、近世後期国学者の著述における表記の実態とその背景を考察することを目的として、国学者の著述に関する資料調査を実施した。具体的には、前年度までの調査において、古代を志向する復古的な表記を実践していた事例の存することが確認できた草鹿砥宣隆を主たる対象として設定し、石川武美記念図書館、西尾市岩瀬文庫、名古屋市鶴舞中央図書館において、自筆資料を中心に書誌調査を行った。これらの調査により、草鹿砥宣隆については、前年度までの調査分とあわせ、日本古典籍総合目録データベースで把握できる範囲内において自筆資料の全点を網羅的に調査することができた。その結果、草鹿砥宣隆自筆資料に見られる、上代特殊仮名遣にもとづく仮名字体の使い分けなどといった古代を志向する表記は、内容面で上代特殊仮名遣や古代歌謡に関する考察を主題とし、なおかつ体裁面で清書本と目される整った様相を有している資料に限って認められることが判明した。 第2に、近世出版文化と筆耕の表記に関する問題を考察することを目的として、板下本の調査を行った。作者の原稿を浄書する専門職人である筆耕が薄紙にしたためた板下は、開板にあたっては裏返して板木に貼り付けられ、それにもとづいて文字が彫られるため、実際に書物が刊行された場合には消えてなくなってしまうものである。しかしながら、何らかの事情で刊行が実現しなかった場合など、まれに板下の形で残存することがあり、それは筆耕の表記の実態を考察する上で有効な資料となりうると考えられる。西尾市岩瀬文庫において板下本の資料調査を行い、筆耕による表記の修正箇所を中心に検討を行った。
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