本研究課題は、中国沿海部と東南アジア島嶼部のイスラーム史蹟における現地調査を行い、そこに残されたイスラーム碑文(おもにアラビア語墓碑)の相互の比較研究を行い、それによって、歴史的に海上交易によって結びつけられた当該海域におけるアラブ・ペルシャ系移民の通婚と文化接触の結果形成されたイスラーム系集団間の連環を探るものであった。 当該地域出土のイスラーム石刻のテキストから得られる年代的・地理的情報の収集、および、関連する漢語・アラビア語・ペルシャ語文献資料の網羅的分析を行った結果、以下にのべるような、12~16世紀前後の南シナ海域・東南アジア海域に広く分散するイスラーム系集団の連動性や関係性に迫ることができた。 北宋初の開宝年間(968-976)は、南インド・東南アジアの諸国からの朝貢が盛んにみられた時期である。宋と海外諸国との関係のかなりな部分は、かれらの請負の上に成り立っていた。本研究課題の一環で、2012年8月に泰山や汾陰など宋皇帝の儀礼の場を訪問し、関連資料の収集・分析を行った結果、上記の諸国や使となった人物の間の関係性も明らかとなった。 中国沿海部の北京・揚州・杭州・福州・泉州・広州で、元統治下のこれら諸港に来航し居留していたイスラーム教徒たちの墓石が多数発見されている。これらの墓主の出身地は新疆、トランスオクシアナ、イラン、ホラズム、アルメニア、シリア、アラビアに分布し、旧ホラズム王国の出身者が非常に目立つ。 ジャワのマカム・トロロヨの墓碑群の紀年(没年)のタイム・スパンは、1368年から1611年に及ぶ。中国沿海部にみられるアラビア語墓碑のタイム・スパンは1173年(1129年?)~1371年となっており、多くがモンゴル支配後半期の1270年代~1360年代に集中する。両者が入れ換わるように増減したことは、ムスリム商人たちの来航と居留のセンターの地位の交替を示すだろう。
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