今日的女性誌の広告メディアとしての機能の進展を、『主婦之友』(1917年創刊)を中心に考察した。1920年代半ばから雑誌への広告出稿が急速に伸張していった。発行部数が拡大しマス・マガジンとなり、広告媒体としての魅力が高まったことが大きな要因である。もともとメディアとは、広告業界から定着した用語であり、広告機能おいて重要な役割を果たす媒体であることを指す。そのため、明治時代の婦人雑誌は「広告」メディアと呼ぶのは難しい。広告が掲載されているものの、発行部数も少なくその魅力には乏しいためである。加えて、当時は宣伝効果が女性に限定されているため、できるだけ多くの人に周知したいという広告主にとってみれば、新聞に比べて広告媒体としての魅力に欠けていた。だが次第に、その「セグメント(読者対象の絞り込みがなされている。ここでは女性に限定的ということ)」という特徴が、そうした商品に興味を持つ購買層に対してより「効果的な」広告が行えるとし、婦人雑誌の広告媒体としての魅力が認知されるようになっていく。 1930年代の後半、1937年の日中戦争への突入にともない、物資不足が深刻化し、婦人雑誌も含め、新聞雑誌は用紙制限から統廃合がすすんだ。雑誌は徐々にページ数は減らし、もちろん広告ページも激減する。しかし、婦人雑誌は、アドバタイジング(広告)メディアとしての機能を失い、プロパンガンダ(国家宣伝)メディアへと移行した、とは単純には言えない。というのも、1937年以後も婦人雑誌から完全に広告が失われたわけではない。 1945年の敗戦直後から、戦前と同様のスタイルで刊行され、広告をいち早く復活させた婦人雑誌は多い。その代表的存在であった『主婦之友』(戦後は1953年から誌名を『主婦の友』とした)が戦後も続く長寿雑誌となった背景には、同誌が築いてきた広告との良好なつきあい方があった。
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