本年度は、谷本清牧師の米国側での支持者とその政治的・社会的背景を検討した。谷本は米国訪問(1948年9月~1950年1月)を契機として、広島でのそれまでの活動をもとに、平和運動と被爆者救援のためのキリスト教組織であるヒロシマ・ピース・センターを構想した。ただし、1949年初め、世界情勢の行方を懸念するアメリカ人が参加したことで、センターは世俗的でより大規模な平和運動組織へと変化した。 だが、まさにその世界情勢の悪化のゆえに、この時期、米国社会で平和運動は弱体化しつつあった。結局、ピース・センターの事業として反響を呼んだのは、原爆孤児を救済する精神養子運動(1950年1月~)だった。この社会事業への再度の方向転換は、ソ連に対抗して、米国とアジアのあいだの情緒的な絆や互恵的な関係を重視する「冷戦オリエンタリズム」に裏打ちされていた。そのため、精神養子運動以外の社会事業は米国市民の共感を得られず、また広島や核兵器への関心は薄れ、最終的にはセンターの壮大な構想が実現することはなかった。 以上の議論を踏まえ、2011年度やそれ以前の研究成果とあわせて、ビキニ被災事件以前というきわめて早い時期に谷本とセンターの「越境」が可能になった理由として、原爆に対する米国社会の多様な関心や、日米の和解と同盟関係を要請する「冷戦オリエンタリズム」など、日本国外の情勢の影響を直接的に、また強く受けていたことが重要だったことを明らかにした。 そして、こうした時代状況ゆえに、「ヒロシマ」というシンボルが、米国社会の関心を反映して読み替えられつつ共有された結果、谷本とヒロシマ・ピース・センターの「越境」は、摩擦もはらむものだったことを論じた。言い換えると、広島の人々にとっての「広島」の意味、すなわち被害の実態までもが米国で理解されたわけではなかった。谷本とセンターが広島の地域社会で批判を受けたのはそのためだった。
|