本課題は、規範の表れやすい辞書をモデルとし、中世イロハ引き日本語辞書を対象として字体認識を明らかにするとともに、それに伴う注記構造の解明を目指すものである。ワード・プロセッサーによって各人が同一字形を実現しうる現代とは異なり、規範の実態が不明である日本中世にあって字体認識はいかに求めうるのか、解明が待たれている。これらの研究目標の下、今年度は昨年度に続き、最古のイロハ引き辞書『色葉字類抄』の「作」注記について、用例整理と個別精査を実践した。結果、前年度口頭発表時は明らかにしえなかった事象とその要因について論理の精緻化を進め、査読付き学会誌に論文を公表した(『日本語の研究』)。同書における「又作」注記と「亦作」注記は用法に相違が認められること、また辞書改編に際して見出し字を注記情報化している痕跡が見られ、かつ「亦作」の所在の偏りから、注記構造の解明のためには編纂過程を考慮に入れる必要性を指摘した。本論文の論旨から、日本語辞書史における異体字・異表記の注記形式の系譜という課題を再設定し、異体字注記は「作」から「同字」へと形式が移行し、逆に「作」注記は異表記表示に特化してゆくという仮説を提示した。これを検証する意味で、『色葉字類抄』と古本『節用集』をつなぐ存在として『下学集』に注目し、その注記形式と実態を報告した(名古屋言語研究会第100回記念大会)。同時に、『節用集』所載の注記情報は『下学集』からの継承の可能性が認められることから、『節用集』の独自情報を採取する必要性が明らかとなった。本課題の取り組みは、字形の異なりをどう認識していたかという視点において規範性をあぶり出し、歴史史料・文学作品の読解等において援用の可能性を持つ。この視点から、表記体の異なる『源平盛衰記』各種伝本の字体の異なりについて用例を収集し、全釈として論文を公表した(『名古屋学院大学論集人文・自然科学篇』)。
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