今年度は、1192年までの「貨幣封」に関する史料調査とその分析を行った。従来の研究では、「貨幣封」とは下級騎士に限定されたものとして定義されてきた。しかし、史料から明らかとなったのは、上級貴族も「貨幣封」の授与対象となっていたこと、「貨幣封」を媒介とする封建主従関係は世俗の騎士に限定されず、騎士団を抱える教会勢力や騎士修道会なども含まれることが判明した。 また、エルサレム王国を始めとする十字軍国家の経済状況の変化が、「貨幣封」の在り方そのものにも変化をもたらしたことも明らかとされた。具体的には、ボードゥアン2世期までは、概してその額は少額であり、聖俗勢力の間に大きな違いは見られなかった。しかし、金貨が製造されるなど経済的発展が見られるボードゥアン3世期より、とりわけ度重なるエジプト遠征を敢行したアモーリー期よりその額は増加し、貴族層や騎士修道会組織も「貨幣封」授与の対象となっていったこと、その一方で教会勢力は少額のままか、もしくは「貨幣封」授与の対象から外れていくことなどが確認された。 これらの成果は「貨幣封から見る十字軍国家の社会構造(1099~1192年)」『ヨーロッパ文化史研究』25号、49~72頁、という形で公にすることができた。なお、1192年で一つの区切りをつけたのは、1187年のハッティーンの戦いと、アイユーブ朝スルタンのサラーフッディーンとイングランド国王リチャード1世との間でその休戦協定となるヤッファ協定が締結された1192年を境にして、十字軍国家の地図が大きく変わったからである。
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