研究課題/領域番号 |
23K02093
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研究機関 | 和光大学 |
研究代表者 |
太田 素子 和光大学, 現代人間学部, 名誉教授 (80299867)
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研究期間 (年度) |
2023-04-01 – 2028-03-31
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キーワード | 近世戸籍 / 直系小家族 / 分家 / 養子 / 捨て子と拾い子 / 塩業 |
研究実績の概要 |
2023年度は、4・5月に二つの学会・研究会において曽根戸籍の中から観察される家族と子どもの養育および、瀬戸内塩業史の中でのこの地域の特質について研究報告をした。ところがその後半年間、病気入院や在宅治療で研究を予定に従って進めることが困難になった。ただその中でも、瀬戸内の塩業や問屋制手工業の発展など関係する全般的な経済史関係の先行研究をこの期間に勉強し吸収した。新興の小さな港町を知るために、専門外の膨大な先行研究を勉強しなければならなかったが、そこから開けた視野は、この近世港町としては後発の小さな町が、塩業が抱えた近代化の中の困難と戦いながら、1960年前後まで塩の町として活発に生き続けた稀有な歴史を持つことを発見・理解した。 戸籍から伺える町の開発は天保年間初期に始まり最盛期は弘化年間で、好調を維持出来た期間は20余年、あまり長くはない。それでも、比較的小さな60から200石高前後までの船による海運の町になっていたこと、塩の積み出など海運業以外にも、豆腐屋や魚屋など小商による生業や紡績関係の内職によって小さな家族が生きてゆけたことなどはわかっていた。 この間、瀬戸内塩業史の理解が深まり、この地域の塩業は、大野毛利家によって開発された先行する平生塩田が次々と閉鎖されてゆく幕末維新期を乗り越え、専売公社化の時代も生き延びて、「ウラン濃縮」という技術革新の段階に初めて「降参」するまで、なんとかこの地域の産業を支えてきたことがわかったのである。家族の生活実態からこの町の誕生発展を見てきた目には、この町の歴史は「驚きの頑張り」と映る。1970年代に克明な『平生町史』が編集されていることは、「ウラン濃縮」という技術革新についてゆけずに、とうとう塩業を断念したこの町の運命の大きな転換期を意識していたからなのではないかと考える。このような視野から、改めて近世戸籍の詳細な分析を深めたい。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
3: やや遅れている
理由
当初の予定では、2023-4年度2年かけて、曽根戸籍全体の整理と分析を大方終わらせること、その後この地方の文書史料によって塩業史や紡績業の状態を理解し、戸籍から伺われる家族の構成と変容、子どもの状態と子育ての習俗などをトータルに分析する予定だった。しかし、病気のため、戸籍の整理分析という集中力と根気のいる作業に着手できず、2023年度の作業予定が達成できなかった。予定を1年遅らせて、2024-5年度に実現したい。その一方で、塩業史や長州藩の支配に関する知識は着実に増えたので、浜子(季節的な奉公人)の存在などを視野に入れながら戸籍の分析が可能になったともいえる。
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今後の研究の推進方策 |
7000枚にわたる映像資料の整理分析に当面力を入れる。その際、運送、塩田、問屋、小商など、この地域の生業との関係を視野に入れながら戸籍を分析する。 後発の小さな港町の家族と人口の歴史、1927年から1972年までの発展から停滞への移行期におけるこの地域の家族の営みを、産業の特質や状況との関わりも重視して丁寧に見ておきたい。 その際、特に注目したいことは、一つには、幕藩領主との結びつきの弱さが活発な地域産業を維持できた背景にあったこと、また第2に、この地域で見られた小家族の自立性の高さについて、岡山地方など経済先進地でも観察される、いわば近世の直系家族から近代的な都市小家族への移行の典型としてこの地域の小家族を考えることの2点である。 こうした家族の歴史の中で、近代移行期の子どもの存在状況、子育ての状況を、養子、捨て子と拾い子、間引きと出生制限を軸に考察する。
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次年度使用額が生じた理由 |
2023年7月以降12月まで、病気療養のため予定した研究活動を進められませんでした。特に、古文書のデータをパソコンに入力する作業の依頼、監督が遅れたため、その予算が次年度に持ち越されています。幸い、健康が回復致しましたので、研究を継続致します。
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