吸入麻酔薬の作用機序の一つとして、近年視床-大脳皮質間の神経ネットワークが注目されている。一方で吸入麻酔薬は幼年期における神経幹細胞のニューロンへの分化を抑制し、長期的な学習障害などの誘因となる可能性が基礎実験では示唆されている。臨床的には反復する被手術経験はその後の認知機能障害発症と関連することが知られている。これまでの基礎実験の結果と臨床的な経験則の間には未知の部分があるが、本研究結果の一部は神経幹細胞のドーパミン作動性ニューロンへの分化を抑制する可能性を示唆しており、これまで不明であった手術に伴い中枢神経障害が起こる可能性の機序の一部を説明しうるものである。本研究ではこれまで幼年マウスにおいては吸入麻酔薬曝露単独でNogo受容体関連遺伝子の発現を増大させることを示した。本年度は高齢手術モデルマウスを作製し、同様の研究手法により網羅的遺伝子発現の変化を測定した(トランスクリプトーム解析)。この結果、手術操作はシナプトタグミン1(Syt1)遺伝子の発現を減少させることを発見した。Syt1遺伝子がコードするシナプトタグミンはシナプス間の主要なカルシウムセンサーであり、手術操作に伴う全身性の炎症により脳内のシナプス伝達の様式が変化する可能性が示唆された。またトランスクリプトーム解析によって得られた複数の候補遺伝子について、mRNAの発現変化をリアルタイムPCRによって追試し、同様の結果であることを確認した。これらの結果から、吸入麻酔薬の作用は短期的な曝露によっても脳内の神経伝達に大きな影響を及ぼす可能性が示唆され、また手術操作も脳内の神経伝達様式に変化を与えるものであると考えらた。
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