日本語話者は、発話に際してこの世の様々な事象を主観的に捉え、言語化の対象である事態を切り取り、こうした主観的に捉えた<見え>のままに語りだす傾向が見られる。ただ、日本語話者は表現的な志向性を伴うと、事態から直接体験的に得られる<見え>だけでなく、そこから連想されたり、仮想的に推論されたり、飛躍的な着想されたりして得られる、極めて視覚的イメージを伴う、新たな<見え>の創造とその表現に向かう。こうした<見え>の創造的行為と表象の一例が<見立て>である。 <見立て>は日本では文芸に発し、万葉集・古今集において既に観察され、中世になると文芸だけでなく、茶道や華道、作庭、建築の世界でも盛んになり、近世では連歌や俳句、絵画や演劇、料理などへとその世界を広げる。本研究は、これら視覚文化における<見立て>が文芸の<見立て>と同じ過程を経て創造され、互いに相同的であることと、言語の世界においても<見立て>に近い過程を経た言語表現があることを指摘し、それらが認知言語学で言う<主観的把握>に基づく点で、相同的であることを示すとともに、<見立て>は極めて主体的かつ身体的であり、イマ・ココの場に密着して行われる行為およびその表象である点で、比喩とは性質を異にすることを指摘した。 ただ、言語表現の場合、特に文法では、<見立て>というより、イマ・ココの「現前」の<見え>に創出された「非現前」の<見え>を重ねることで、推論を表現する現象が顕著となる。これは独創的な創造を目指す<見立て>に対し、確からしさの主張を目指すことによると考えられるが、抽象的推論とは性質を異にする。以上に関して、中国・韓国・トルコなどの話者に、これらと共通する傾向がないか認知類型論的な観点から調査を試みたが、今のところ同じ<主観的把握>傾向のある韓国語話者・トルコ語話者においても同様の傾向は未だ見つかっておらず、今後の課題を残す。
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