近代化の進展は、人格を陶冶するというよりも、環境の操作によって人間を管理するという事態を招来している。これは、象徴的意味空間を生きるbiosとしての身体が、剥き出しの生物的身体であるzoeへと回収されていくことを意味する。このような事態が自閉的で排他的傾向と相まって進行するとき、「他者無しでは救われない」という人-間的共生の可能性は縮減する。 また、グローバル化の進展は、現代社会というシステムが「総駆り立て体制Ge-stell」によって駆動された「犠牲のシステム」(誰かを犠牲にすることで〈利益〉が生み出される制度)という側面を色濃くもつことを顕在化させている。 本研究は、このような状況下にあって、それでもなお、協働と共生を基盤とする社会を実現する希望を語るために、「生物学的死biological death」と「パーソンの死」との区別如何を問題にするアングロ-サクソン系哲学における死の考察と実存主義の死の哲学とを架橋し、「生の内なる死death in life」という事象の現象学的考察によって、人-間的共生の地平を切り拓くことを目指すものであった。 これまでの研究によって、この研究課題は、トーマス・マン示していた洞察、つまり病気と健康とが決して分離・対立するのではなく、むしろ病気に保護されることではじめて健康ということが機能するという洞察と深く呼応するものであることが明らかになった。「絶望の超越性」つまり「希望のなさのかなたに生まれる希望」を見いだす「芸術的逆説」という事態である、この「絶望の超越性」という事態は、デリダにおける〈喪〉の問題、パウル・ツェランにおけるハイデガーによる謝罪への期待、そして日本的状況の中で〈アンティゴネー〉問題を考察するという課題に他ならない。今後は、そのような広がりの中で課題を解明すべきだという知見を得た。
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