2012年度は、文意としての「直観」(プラティバー)に焦点を当ててバルトリハリの言語哲学の虚像の一端を明らかにし、2013年度は、同哲学の「原像」そのものを掘り下げて考察するために「形而上学的直観」の問題を取り上げた。また、2014年度は、バルトリハリの文論の「原像」を彼とほぼ同時代の仏教論理学者ディグナーガ(470-530)に探る試みを行った。そして、最終年度2015年度は、バルトリハリの言語哲学における「実在と言語」の問題を取り上げ、プニアラージャと並ぶ注釈家ヘーラーラージャ(10世紀)の解釈が同哲学の原像をどの程度まで反映したものかを検討した。一般に、ヘーラーラージャは、プニアラージャに比して、同哲学の忠実な理解者とされてきた。しかしながら、ヘーラーラージャに関しても、彼の解釈に原像との偏差の可能性を常に意識すべきことが明らかとなった。 文論はバルトリハリの言語哲学を核心をなす。『ヴリッティ』に展開される文論にはバルトリハリが第1巻と第3巻において論ずる諸点が忠実に反映されている。バルトリハリの文論を『ティーカー』は、パーニニ文法学本来のものではないミーマーンサー学派の文意論の枠組みで解釈する。ヘーラーラージャとは異なり、『ティーカー』の作者プニアラージャが『ヴリッティ』を読んでいないことは確実であり、プニアラージャはパーニニ文法家ではないと断言できる。したがって『ティーカー』はヘーラーラージャの第2巻に対する注釈のプニアラージャによって作成された縮約版ではあり得ない。『ティーカー』への留保なしの依存には抑制的であるべきである。 ヘーラーラージャの場合を考慮しても、5世紀の思想家を11世紀の解釈学者の視点でのみ理解することには慎重でなければならない。バルトリハリ言語哲学の原像の理解は、彼の作品に立脚するべきという当然のことが実現される文献環境が一刻も早く整備されるべきである。
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