1.大嘗祭の芸能に関する研究 平安初期の儀式書『儀式』には、大嘗祭で様々な芸能が行われていたことが記されている。18世紀初頭に復元された久米舞は、元来山野での狩猟・採取生活を歌っていたことが国文学の先行研究によって既に指摘されている。また、久米舞と対になって奏される吉志舞は、水軍・外交を司る一族によって伝承・奏上されているため、久米舞=山の民、吉志舞=海の民による一対の歌舞が想定される。この概念は国栖奏と隼人舞の組み合わせにも合致する上、山・海の民から貢献を受けることは支配者として必須の条件であるとの指摘も文献史学からなされている。一方、大嘗祭で天皇が食する米を貢献する悠基国と主基国もそれぞれ在地芸能を行っていることから、収穫祭でもあるが故生物を口にすることができない天皇が、王権就任儀礼に臨む支配者として必須とされる山海の収獲物を取り込む手段として、久米舞と吉志舞が奏上された可能性が指摘できる。 2.中国の百戯とその日本への影響 百戯とは古代中国において行われていた音楽を伴う相撲、軽業、幻術、仮装などの見世物である。渡辺信一郎の研究成果および後漢期の墓壁画を参考に、正史などの記事を分析すると、中国は制した異民族の芸能を吸収し、国家的に伝承していたことが指摘できる。『隋書』礼楽志に見える大業6年正月の洛陽において行われた大規模な百戯の記事からは、それらを異民族にひけらかし国力を誇示せんとする煬帝の意図が窺える。一方、日本でも百戯が行われていたことは、吉田早苗が検証した9世紀の相撲節会の記事や「古楽図」(所謂信西古楽図)に明らかである。発足間もない7世紀末の踏歌節会にも既に百戯を窺わせる記事が見られること、相撲節会では多数の楽人も奉仕していたことから、日本では大業6年洛陽の百戯に影響を受け、同時期の踏歌節会と、一年両分性の原理で7月の相撲節会の双方が成立した可能性が指摘できる。
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