「帝国キネマ演芸の総合的研究――映画史、地域関係史、国際交流史の視点から」の成果として、戦前の大阪には実は、大小さまざまな撮影所が存在し、たくさんの映画を製作、配給、興行、消費していたことが明らかになった。とくに1920年に設立された帝キネは、大阪最大の映画製作会社であったというだけでなく、1931年にそれが消滅するまで、老舗の日活や新進気鋭の松竹と肩を並べる日本三大映画会社のひとつとして活躍していたことが明確になった。 また、調査を進めていく過程で、同時代の東京在住の文筆家や批評家が抱いていた帝キネに対する否定的イメージ――「大阪特有」、「二流」、「地方」――とは裏腹に、富士山より西の地域では、帝キネの作品とスターが絶大な人気を誇っていたことがわかった。 さらに従来の映画史で帝キネは、大正末期に新しい映画製作を目指して次々と設立された新会社とは異なる類の会社と考えられてきたが、実は帝キネも、同時代的な志をもち、海外市場にも積極的に進出し、他の新会社としのぎを削っていたことが明らかになった。 とくに興味深かった発見は、大阪の盛り場にあった見世物小屋や劇場が、しだいに映画館に変わり、近代的な映画街が形成されていく過程で、帝キネの創設者である山川吉太郎が、非常に重要な役割を果たしていた点である。とりわけ天然色活動写真の上映を目玉にした千日前楽天地の開場と連鎖劇の流行は山川に負うところが多く、日本における近代的視覚文化の浸透を考える上でも貴重な事例であることがわかった。
|