研究課題/領域番号 |
24520221
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研究機関 | 秋田県立大学 |
研究代表者 |
高橋 秀晴 秋田県立大学, 公私立大学の部局等, 教授 (40310982)
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キーワード | プロレタリア文学 / 種蒔く人 / 金子洋文 / 小牧近江 / 今野賢三 / 武者小路実篤 |
研究概要 |
金子洋文寄贈資料の中の武者小路実篤に関わる書簡類を中心に分析・考察を進めた。洋文は、母校土崎尋常小学校での代用教員時代、反戦戯曲「或る青年の夢」を読んで感動し、その作者である武者小路実篤に傾倒し始める。1916年10月、雑誌『日本評論』の論説記者就任のため再上京した洋文は、千葉県我孫子手賀沼に新築(1916年12月20日移転)した武者小路宅に娘の喜久子の家庭教師として寄寓することになる。その始まりの日時について、金子洋文「その種は花と開いた」(『月刊社会党』1961年9~12月号)には「六年元旦から」とあるが、寄贈資料の中にあった1916年12月31日消印の武者小路書簡(葉書)には、「来月の五六日頃によかつたら一度来て下さい。」とあって、その指示に従ったとすれば正月五日以降となることがわかる。また、「しかし君の空想がよすぎると、イルージョンがこわれる時のことが頭に浮びます。その時の用心をちやんとしておくことを望みます。」といった思いやりに溢れた文言も多く認められた。 洋文と武者小路の親密な交友関係の具体的状況が鮮明になったわけだが、それが、1920(大正9)年1月23日に日向の「新しき村」にやってきた小牧近江に有島武郎を紹介したこと、戦時中の1945年六月上旬、家族を連れて秋田県の稲住温泉を訪れ『稲住日記』(八月九日~九月八日)を執筆したこと等に繋がった可能性が高い。 以上のことを、共編著『東北近代文学事典』(勉誠出版、2013年6月10日)、単著「武者小路実篤と秋田」(『秋田文学』第4次第22号、2013年9月9日、要請により『新しき村』第66巻第2号、2014年2月1日に転載)、口頭発表「クラルテ運動と『種蒔く人』」(日本比較文学会東北大会、2013年11月30日)、口頭発表「金子洋文と雑誌『種蒔く人』」(秋田風土文学会、2014年2月15日)等において公表した。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
第一の目標であった武者小路実篤書簡についての分析・考察は予定通りに遂行し、新たな事実や知見を提示することができた。そしてその成果を、共編著『東北近代文学事典』(勉誠出版、2013年6月10日)、単著「武者小路実篤と秋田」(『秋田文学』第4次第22号、2013年9月9日、要請により『新しき村』第66巻第2号、2014年2月1日に転載)として活字化し、「クラルテ運動と『種蒔く人』」(日本比較文学会東北大会、2013年11月30日)、「金子洋文と雑誌『種蒔く人』」(秋田風土文学会、2014年2月15日)として学会発表した。また、日本詩人クラブ秋田大会講演(「秋田の近現代文学―文学史との関わりを視野に入れて―」、2013年5月11日)、日本文学同好会講演(「タネマキスト・今野賢三」、2013年6月23日)等において公表した。
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今後の研究の推進方策 |
武者小路実篤書簡の分析・考察を土台として、白樺派全体と『種蒔く人』主要同人との関わりについて調査を続行する。 一方、現在『中央公論』主幹だった滝田樗陰の旧蔵資料を用いて『秋田魁新報』文化欄に樗陰論を連載中であるので、その成果に基づき、洋文と樗陰との関わり、大正期における雑誌の役割等を視野に入れながら研究を発展させてゆく。 なお、以上を通じて得られた結果を、学会発表、論文発表、講演等で随時公表する予定である。
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