本研究事業の1年延長が認められたことによって、長谷川賢二ほか編『修験道史入門』岩田書院)、「聖護院門跡の名宝」展(京都)の貴重な成果を踏まえて、修験道史上における『大峯縁起』の評価をまとめることができた。 室町時代以降、熊野三山検校職を兼帯した聖護院門跡が自らの正統性の支証の一として『大峯縁起』を用いたことはよく知られるが、そうした状況が鎌倉時代にまで遡りえないことが判明した。すなわち、鎌倉後期、『大峯縁起』が日本仏教史の叙述と関わってくるのは、真言宗における東大寺と醍醐寺との本末相論がきっかけであったと推定される。同時期、天台宗寺門派は熊野三山検校職を再び掌中に納め、「顕・密・修験」兼修を標榜するようになるが、その支証として『大峯縁起』が用いられた形跡はなく、上皇の熊野御幸の再興がその動きの中核に据えられていたことを確認した(「学会発表」参照)。 上記のうち本末相論について補足すると、東大寺の主張の一つの核となったのが、役行者の山林修行の事蹟を、日本における空海以前の密教史と見る考え方であり、その考え方が『箕面寺縁起』に由来することも判明した(「雑誌論文」参照)。 以上、研究事業当初は、室町時代はもとより、鎌倉後期、天台宗寺門派による修験の興隆のなかでも『大峯縁起』が重要な機能を果たしたと予想していたが、事態はそのように単純なものではなく、上述の通り、真言・天台の大寺院を巻き込んだ、より大規模な修験の興隆が進んでおり、その一脈を『大峯縁起』が担っていたことを解明した。
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