「錦繍段抄」の調査を行った。解明できたことは以下である。 「錦繍段抄」の「底心」は岩瀬文庫本に顕著に見られる。その「底心」には比喩が示されているとして当代への諷刺と捉えたり、さらにその政治の偏頗によって生じる作者自身の不遇と捉えたりする場合がある。その比喩の字句が類似していて、作者の不遇も作者そのものを不遇とするところから出発していることを考えると、それはかなり機械的な作業であったと推測される。 その「底心」が生まれた要因は外部資料に求められる。岩瀬本の「底心」はその他の抄物の「底心」や依拠資料と無関係ではなく、他の資料を引用することで「底心」を生み出している。岩瀬本『錦繍段抄』は他の資料を引用すること頻繁であって、それらを基に「底心」を生み出している。しかもやはりその「底心」が時として類型的であることを考えると、むしろ強いて「底心」に合致する資料を見出しているかのようである。さらに他抄物と照合したときに、岩瀬本は原型でない部分を有すると認定しなければならない。岩瀬本が他本に拠った部分を有することを示している。つまり岩瀬本そのものは原型とは言い難い。よって先述の岩瀬本における先輩の説も、やはり他本もしくは他資料の引用と考えた方が自然である。 岩瀬本が転写本でないとするならば、「底心」の下限は、一応は江戸初期と想定することができ、さらに岩瀬本そのものは「錦繍段抄」の原型とは言い難い。「三体詩抄」と対比させるならば、むしろ塩瀬宗和の『三体絶句抄』や『三体詩素隠抄』に近似することになる。総じて、「三体詩抄」と対比させるならば、塩瀬宗和の『三体絶句抄』や『三体詩素隠抄』が、岩瀬本『錦繍段抄』の「三緯」説や「格」説に近似することになる。それは岩瀬本の書き入れや抄文が、月舟寿桂や継天寿戩の説とは認定しがたく、さらに江戸初期を下らないと想定したことと齟齬をきたさないことになる。
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