研究実績の概要 |
本研究は、D. H. ロレンスのテクストと、キャノンでないとして光の当てられることの少なかったポピュラー・フィクションとを比較し、帝国のイデオロギー、ナショナリズム、第一次大戦期のイデオロギーといった観点から再読する試みである。 1930年代は、「イギリス文化の中で、労働者階級小説がカルト的地位を占め人気の神秘的崇拝物となった」とされる(Haywood, Working-Class Fiction, 36)。これらのいわゆるプロレタリア文学のうち炭坑を舞台にした作品を残した作家たちに、ジェイムズ・C・ウェルシュ、エレン・ウィルキンソン、ハロルド・ヘスロップ、ウォルター・ブライアリー、ルイス・ジョーンズといった作家が挙げられる。これらの作家たちのテーマは、多くの場合資本家とプロレタリアートの政治的対立であり、そこでは自分たちを理不尽に搾取するブルジョアに対して体を張って戦いを挑む炭坑夫とその家族たちの物語が紡がれていく。 しかしロレンスが描く階級間の軋轢は、このようなプロレタリア作家たちの描くものとは本質的に異なっている。ロレンスのテクストでは、初期から中期をへて後期へと至るにつれ、その労働者を描く筆致は大きく変化していく。しかし初期、中期テクストでは当時のブルジョア社会を覆っていた、労働者階級出身の帰還兵に対する抑え難い恐怖感が強く滲み出ており、また後期における労働者賛美には、炭坑夫を英雄であり犠牲者として美化した中産階級出身のドキュメンタリー作家たちの視線が重なりあう。すなわちロレンスのテクストは、相対立する二つの階級に対する作者のアンビバレントな感情が刻み込まれた重層的なテクストなのであり、そこにはブルジョア階級に対する批難と労働者階級賛美という表層の下に、テクストが生み出された時期に支配的であった中産階級のイデオロギーが通奏低音のようにこだましているのである。
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