ラフカディオ・ハーンがフランス語圏で広く知られるようになるのは、従来1910年以降、マルク・ロジェによる作品のフランス語訳が発表されるようになってからだとされていた。また、マルク・ロジェの翻訳では、おもにマルティニークの民俗学的な著作に焦点が当てられ、必ずしも日本紹介者としてのハーンがクローズアップされたわけではなかった。しかし、本研究によって、ハーンが日本に関する著作を英語で発表したのとほぼ同時期に、英語のままでその著作を出版からほどなくして読んでいた読者層がパリを中心とした文壇(詩壇)にはかなりいたことが明らかになった。たしかに、1903年にはすでに、ハーンの「涅槃」の仏語訳などが専門的な雑誌に掲載され、フランス語圏においてもごく一部の専門家の間では日本の仏教の一面を紹介する「哲学者」としてのハーンは知られてはいた。しかし、そのようなハーンの仏教観を自らの文学作品に取り入れ、表面的な異国趣味の披瀝ではなく、本質的な精髄の理解に到達しようとする「ジャポニスム」文学の成立を目指す動きがあったことも本研究によって明らかになった。無常観に代表される日本固有の仏教的世界観がこのようにして20世紀初頭のフランス文壇に移植されたことは明らかである。さらに、日本の代表的な短詩形文学である「俳諧」という形式のフランスへの導入とその評価は、和歌に比べるとかなり遅れ20世紀に入ってからであるとされているが、ハーンによる俳諧の英訳と解釈をそのままフランス語に移し替えた例も発見され、同時代のフランスの詩人がすでにこの日本固有の短詩形に関心を抱き、自らの詩作の在り方に変更を加えている様子も観察することができた。
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