当初は, 30年代チェコにおいてアヴァンギャルディストと共産党系知識人との間で戦わされた社会主義リアリズムをめぐる論争を跡づけることに専心する所存であった。強権をもって押しつけられた社会主義リアリズム以外に選択肢のなかったソ連と異なり,自由主義体制下にあったチェコなるがゆえに可能であったこの論争の経緯は,世界的に大きな影響力をもった社会主義リアリズムを再考するにあたって,ソ連の芸術史を辿るだけでは見えてこない理論的可能性を示唆してくれるとの予測は間違ってはいなかった。 だが,当時の文化状況は予想以上に複雑だった。チェコの共産党系知識人は社会主義リアリズムが提唱される以前はアヴァンギャルド芸術と近い関係にあり,チェコ芸術の成果としてアヴァンギャルド芸術を評価し,自らの芸術理論に取り込もうと試みたのである。 さらに30年代のチェコの特徴として,構造主義の影響力を指摘できる。ソ連においてフォルマリズムがいとも容易く圧殺され,しかも前衛芸術の弾圧が「形式主義」批判という名目でなされたのに対して,チェコにおけるアヴァンギャルド批判は,形式と内容をめぐるはるかに理論的な言説となりおおせており,構造主義美学の取り込みと超克を目指す弁証法的試みであったと評することさえできる。社会主義政権が成立した後,公式に構造主義は否定されることになるが,その隠然たる影響力の大きさは,実は社会主義リアリズム論の中に強く感じられるのである。 そこで遠回りを承知で,構造主義,アヴァンギャルド,フォルマリズムの関係を詳細に研究することを通じて戦間期チェコにおける左翼文化の独自性を浮き彫りにすることを目指したが,その輪郭を素描することはできたが,社会主義リアリズムをめぐる共産党系知識人とアヴァンギャルドの理論家と構造主義者,三者の関係を詳細に明らかにすることは,遺憾ながら、今後の課題として残された。
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