最終年度の平成26年度は、タイおよび他の東南アジア地域の近代小説との比較研究を、当該地域(タイ、ベトナム、インドネシア、ミャンマーなど)の邦訳作品や文学研究者との意見交換を中心に行った。その中には9月と12月にタイで行った調査、研究も含まれる。この比較研究によって、タイを含めた当該地域における近代小説には、欧米にはないが、日本の近代小説には時に散見される、通時的特質と共時的特質の2つの共通する特徴があることが分かった。その理由として、前者は抽象的、思弁的世界と感覚的世界という世界観の違いに由来すること、後者は伝統文化や宗教に由来する価値意識が大きな影響を与えていることがほぼ推定できた。3年間の研究期間全体を通じた研究成果は以下の通りである。(1)文化全体の中での文学が宗教や思想の一部に過ぎず、中心的役割を担うに至らなかった、(2)韻文文学から散文文学への移行が連続性を保った日本とは決定的に異なって、表現形式も物語内容も前近代文学とは断絶したこと、(3)西洋近代小説の収容特徴である心理描写が決定的に少なく、叙事詩的な単発のエピソードの数珠つなぎ的な物語構造が散見されること、(4)人間や社会の描写に多面性、重層性が見られず、人物の思考や行為が画一的であること、(5)伝統的価値観や宗教の影響を受けた価値基準から作者も読者も自由でなく、他の文明の世界観や価値意識との比較を通じて自己を相対化させる作品がほとんどないこと。(6)タイを含め、近代の国民に広く受容された国民文学というものの不在、(7)小説というものの捕らえ方が狭く、その結果、啓蒙的、道徳的な作品が主流となって、題材や叙述法やジャンルの発展の妨げなったと思われること、(8)人間の犯罪を倫理的に追求せず、虚構としての世界の緻密な構造を崩していく推理小説の登場が遅く、西欧の翻訳しかなかったこと。
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