本年度は、アイヌ語史の解明について、理論的、体系的な考察と、文献資料の整理・分析の両面から研究を行った。まず、理論的、体系的な面からの成果としては、これまでの研究結果を集大成し、アイヌ語史について仮定される重要事項を文献資料からの証拠も含めてコンパクトにまとめあげたことがあげられる。すなわち、1) 樺太方言の長母音が古いとする服部四郎以来の仮説は、音素交替、アクセント、借用語などの点から必ずしも支持できない。2) 未知のわたり音素*Hを仮定する必要があり、文献からも*CVHCという superheavy な音節を仮定する必要が明らかとなっている。3) 樺太方言と北海道方言の音法則は実証面で再検討が必要。4) 樺太方言の長母音は音節末閉鎖音の中和が引き金となって生じた可能性がある。5) アイヌ祖語にはアクセントの対立があったとするほうが合理的に諸事実を説明できる、などである。文献資料の整理・分析によって明らかとなったアイヌ語史に関する主要な論点は以下のようなものである。すなわち、18世紀初頭の年代が明記されたアイヌ語文献は福井県普門寺旧蔵の「犾言葉」(1704)があるだけであったが、岩手県盛岡市の「もりおか歴史文化館」所蔵の「狄さへつり」というアイヌ語語彙集を整理・分析した結果、用字法、語彙、内容の諸特徴が、偶然では説明できない一致を示すことがあきらかになった。具体的点は次の通り。1)アイヌ語の表記に用いられる仮名と日本語の表記に用いられる仮名の使い分けがよく一致する。2) 特定の語彙の特異な表記がよく一致する(pirka の r に「る」相当の仮名を用いるなど)。3) 他の文献にはこれまで確認できない特殊な語彙(父母を意味する軽蔑語など)の一致がある。したがって、これらの二つの文献が18世紀以前にさかのぼるアイヌ語の特徴を含み、アイヌ語史の解明に役立つことをより確実に示すことができた。
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