この研究課題は、従来、主に音韻学的見地から研究対象とされてきた多音字の音注について訓詁学的観点からこ新たに見直すとともに、やはり従来看過されてきた音注の史的変遷についても明らかにすることを目指したものである。多音字の音注は、その字の発音を示すことにより意味を示すために付されることが多い。『經典釋文』は、隋唐までに蓄積されてきた多音字の音義関係のデータを集大成したものだが、經注での出現順に字を配列しているため、字ごとの音と義の対応がわかりにくいという難点があった。そこで、字ごとに多音字の音義の関係を整理した資料が現れたが、その中の代表的なものが『羣經音辨』である。これまでも、訓詁学的観点からの研究がなかったわけではないが、その多くは、『羣經音辨』やそれを承けた『經史動静字音』の解釈をそのまま鵜呑みにし、その經典における附注例を部分的に挙げて終わりというものである。つまり、従来は原資料の『經典釋文』ではなく、その解釈の整理という二次資料を用いたものが大半だったのである。その結果、見過ごされてきた問題の一つが、時代による変遷に対する視点である。資料を読む際に、多音字に音注があれば、その音が示す意味を『羣經音辨』やそれに拠った後世の資料などで確かめるということがしばしばあるが、それらの資料には時代による違いなどは全く記されておらず、宋代以降の整理によって作られた人為的な音義関係も混在している。この研究は、多音字の音注解釈の際に参考にされる二次資料の代表的なもので、現在でも大きな影響力を持つ『羣經音辨』第六巻の記述が『經典釋文』などの注音常用を全く反映していない場合が多いことを実証し、上古漢語の形態論などの研究の資料としては用いるべきではないことを明らかにした。
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