研究課題/領域番号 |
24520491
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研究種目 |
基盤研究(C)
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研究機関 | 東北大学 |
研究代表者 |
齋藤 倫明 東北大学, 文学研究科, 教授 (20178510)
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研究分担者 |
小林 隆 東北大学, 文学研究科, 教授 (00161993)
大木 一夫 東北大学, 文学研究科, 准教授 (00250647)
甲田 直美 東北大学, 文学研究科, 准教授 (40303763)
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研究期間 (年度) |
2012-04-01 – 2015-03-31
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キーワード | 国際研究者交流 台湾 |
研究概要 |
近代日本語学史の上で、山田孝雄は一つの大きな峰をなしている。特に、陳述論を中核とし「山田文法」と世に言われる文法論、あるいは、『奈良朝文法史』『平安朝文法史』『平家物語の語法』を中心とする日本語史研究においては、その後の研究者に大きな影響を与えた。しかし、山田は日本語学史の中に突然現れたわけではなく、山田以前に山田の出現を準備した幾つかの流れが見られる。それを明らかにするために、近代日本語学関係の学史的資料が豊富に揃っている大阪大学図書館に調査に出向き、山田に至るまでの背景について調査した。 また、山田の打ち立てた成果が、山田以降、近代日本語学史の流れの中でどう受け継がれて行くかも重要な問題であるが、その点についても、同図書館の所蔵する資料を収集・分析することによってある程度明らかにすることが出来た。 山田孝雄は、巨大な存在であるが、その周辺には、山田の影響を受けつつも、独自の研究を続けた多数の研究者が存在する。日本語史の分野では、安藤正次がその一人に当たる。安藤は、日本の言語学を育てた東京帝国大学の上田万年の弟子でありながら、必ずしも上田の学風を積極的に承け継がず、当時日本が領有していた台湾の台北帝国大学文政学部の教授として赴任し、特に、当時あまり顧みられることのなかった古代日本語の語詞構成について多くの論を発表した。その過程で、安藤は、時に山田の『奈良朝文法史』の考え方を批判し、独自の主張を展開した。その活躍の有様は、著作集に収められた諸論考からも窺えるが、安藤が終戦時まで台北帝国大学の総長を務めていたということもあり、同大学の後進である台湾大学を実際に訪れ、図書館で当時の資料を調査するとともに、安藤が総長として住んでいた官舎にも行ってみた。そのことによって、当時の雰囲気の一端に触れることができたのは貴重な経験であった。
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現在までの達成度 (区分) |
現在までの達成度 (区分)
2: おおむね順調に進展している
理由
山田孝雄は、もともと近代日本語学史上の巨大な存在であり、その業績や位置付けを巡っての論考も頗る多い。それに対して、本研究の主眼とするところは、山田を中心としながらも、その周辺の研究者が山田といかに関わり、あるいは反発しながら近代日本語学を全体として発展させてきたか、という点を明らかにするところにある。そういう意味では、今回、安藤正次に着目し、安藤の古代国語の語詞構成の研究と山田の『奈良朝文法史』に見られる所説(特に「複語尾論」)との異同について考察を巡らせたのは意義深かった。なぜなら、山田文法に見られるいわゆる語構成の論と、安藤が展開した語詞構成の論とはかなり異質であるからである。 一方、当初、本研究にて山田の周辺学者として取り上げる予定だった岡沢鉦治や菊沢季生等については、まだ充分な調査が行き届いていない。岡沢は、山田と同じ文法論の研究者であるが、山田よりも言語学畑の研究者として知られているし、菊沢は、語彙の研究者として「位相」の考え方を提出したことで知られている。山田孝雄は、幅広い研究業績を有する巨大な存在であるが、時代的な制約もあり語彙についての研究は、注釈書以外比較的少ない。そういう点で、山田以降、どういう経緯で語彙に関する研究が近代日本語学で盛んになったのか、それには山田は何か関わっていないのか、といった点の究明が待たれるところである。 以上のように考えるなら、今後、岡沢鉦治に見られる山田文法とは異なった文法論の側面とその影響、および、菊沢季生に見られる語彙研究への傾斜の淵源(ともしあるのなら山田との関係)を明らかにすることが本研究に課された大きな課題であると言えよう。
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今後の研究の推進方策 |
上記「現在までの達成度」にも残された課題として記したが、本研究において、山田孝雄の周辺的な研究者として想定した岡沢鉦治、菊沢季生の近代日本語学史上における位置づけの究明が未だ不十分なので、まずはそれを明らかにすることを目指したい。具体的には、前者については、主著『言語学的日本文典』に見られる文法論の位置付け(特に、山田文法との関わりをどう見るか)、後者については、「国語位相論」に見られる「位相」の位置付け(特に、「位相」概念の成立に山田が何らかの点で関わっているのかどうかという点)が問題となる。 また、今回新たに、山田孝雄の周辺の研究者として捉えた安藤正次に関しても、「語詞構成」に関する論ばかりでなく、もう少し広い立場から近代日本語学史上の位置づけを考えたいが、それには、著作集に収められている安藤自身の論考はもちろん、他にも東京都立中央図書館に所蔵されている安藤の旧蔵書の目録(入手済)なども、安藤の研究の背景を理解する一助となるであろう。いずれにしても、安藤の全体像を捉えるためには、台北帝国大学奉職中の活動、特に日本語教育関係の活動にも目を向ける必要が出てくると思われる。そういった方面の安藤の事績の究明を通して、近代日本語学史における、国内の中心的・正統的な動向と、海外における傍系の動向とがどのように絡まって近代日本語学が全体的に発展して行ったのかという大きな問題が浮かび上がってくる。これは、従来あまり検討されたことがなく、今後取り組むべき価値のある重要な研究課題であると思われる。
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次年度の研究費の使用計画 |
24年度の研究費が思いの外余ってしまったが、これは、最終的な調査旅行にもう少し費用が掛かるかと思っていたのが、予想外に安く済んだためである。 上述したように、本研究には、まだまだなすべきことが山積している。その第一が、岡沢鉦治・菊沢季生を近代日本語学史上へ正当に位置付けること、第二が、新たに対象に取り込んだ安藤正次を近代日本語学史上へ位置付けること、第三が、安藤との関わりで、日本国内と当時の外地(特に台湾)の日本語学の相互交流の実態を明らかにすること、そして、さらに第四として、安藤と同時期に台北帝国大学文政学部に奉職していた言語学者小川尚義の役割、あるいは位置づけを明確にすることである。 小川尚義は、安藤よりかなり早い時期に台湾に入り、既に『日台大辞典』(1907年)などを刊行し、台湾諸語の研究に精力的に取り組んでいたが、その過程で、台湾における初期の日本語教育に重要な役割を果たしたことはあまり知られていない。そして、その小川と安藤が台北帝国大学で一時期同僚であったこともである。この二人は、どちらも東大で上田万年に学んだ同門の士であり、当時何らかの交流があったことが充分予想されるのであるが、その辺についてはほとんど調査されていない。この点を明らかにし、上述の第三・第四の課題に迫りたい。なおそのためには、台北帝国大学の後身である現台湾大学を訪れ直接図書館等を調査するとともに、台湾の日本語教育に詳しい現地の研究者と意見交換をする場を設ける必要があると考えている。
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